2014/05/02
手子丸城/群馬県東吾妻町
迷子委員会発足○弾!キリが無いので数えるのはもう・・・いったいどれだけ迷ってるのやら┐(´∀`)┌
今回は大本命の手子丸城。ここは登り直すこと3度目にしてようやく城跡に辿り着きました。もう、本当に挫けそうになりました

まずは入口から。
国道406号の大戸交差点から県道58号へ入ります。

2つ目の橋を渡ってすぐの所にこの看板があります。ここから右へ入ります。

入った所は舗装されているのですが、すぐに未舗装の道になります。そして左へカーブすると、右手に水の殆ど無い川が現れます。この川には数十mおきに砂防ダムがあり・・・

1箇所だけ、板を2枚渡しただけの「橋?」があります。その向こう側にはクルマが走れそうな砂利の新しい道があるので、そちらへ渡ります。

その砂利道の坂を登ると、山の方に入る道があります。ここが登城口です。
登城路の坂は緩く、尾根上を少しずつ登る感じです。途中、道が藪っぽく感じる所もありますが・・・城キチにはちょろいレベルです!がっつり掻き分けて進みます。

そうして少~し山っぽくなってきたかな?という所に堀切があります。2度迷って体力を使い果たしていたので、これ見た時は生き返りました!「水を得た和布」のようにwww

堀切は少し進んだ所にもありました。

更に進むと、登城路の右側に尾根が現れます。主郭はその尾根を登った先にあるので、鋭角にUターンっぽく曲がります。その坂はまたUターンみたいになっていて、さっきまでと同じ方向に進みます。登った所は平らになっていて、いくつも郭があるように見えます。その平地にポコっと乗せたような高台が主郭です。

主郭に登る道が見当たらないので、テキトーに直登します。そうやって登った所から見下ろすと、結構広い腰郭が見えました。

何か無いかな~?とウロウロしていると、南西の角辺りにこの石碑があります。「大戸*************」と彫られているので、間違いないですね!・・・ってあんな派手な堀切まであって間違えようもないのですがw

今度は主郭の東側へオソルオソル下ります。道は無いので、下りられそうな所を慎重に歩きます。

すると、東の峰との間の稜線をぶった切るかのように、立派な堀切がありましたヽ(´∀`)ノあぁ、2度も別の山に登って迷ってまで辿り着いた甲斐がありました!・・・と大満足だったので、東側の遺構は見ずに下りちゃいました

◆歴史◆
手子丸城がいつ築かれたのかは定かではありませんが・・・
1215年、浦野氏が大戸に館を構えました。
浦野氏は滋野氏の一族で、信濃国小県郡に栄えた氏族です。地理的には国道144号でそのまま県境を越えた辺りです。滋野氏一族には真田氏をはじめ、海野氏や鎌原氏や羽尾氏などが居ます。大戸に進出した浦野氏は、地名から大戸姓も名乗っていたそうです。
1513年、箕輪城主の長野憲業が大戸要害の攻略祈願をしています。
長野憲業は箕輪城を本拠とする上州一揆の棟梁で、上杉氏に迫る勢いがありました。大戸の浦野氏と争っていた長野憲業は、榛名山神社に大戸攻略の祈願文を残しています。・・・ということで、この時には既に大戸要害(手子丸城)があったようです。長野憲業の没年には諸説ありますが、1514年に吾妻で戦死した説もあるそうです。ひょっとすると、浦野氏か斎藤氏辺りが大金星を挙げたかもしれませんね。
1561年、真田幸隆による吾妻侵攻が始まりました。
1563年、長野勢に攻められたが撃退しました。
浦野重成は真田幸隆が岩櫃城を攻めた際の調略により寝返ったとされます。そのため長野業正の軍勢に攻められましたが、撃退しました。
1582年、後北条軍に攻められて落城しました。
武田勝頼が滅ぼされると、真田昌幸は上杉・北条・徳川の間を行ったり来たりしました。そのため、北条氏直から徳川家康に鞍替えした時に攻められました。この時は真田信幸が岩櫃城にあり、手子丸城に援軍に向かいましたが間に合わず。城は攻め落とされ、浦野兄弟は自刃して滅びました。
その後、真田信幸が1日で手子丸城を奪還しました。この時に攻められた富永主膳は、後に真田信幸の采配を何度も絶賛したそうです。
所在地:群馬県吾妻郡東吾妻町大戸
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