2022/02/06
副城/大分県宇佐市
2021年最後に訪ねた副城(そいじょう)は、とにかく堀が凄かったです。訪問日は2021年12月31日です。

副城は、川沿いの舌状台地先端部にありました。
現在は公園となっており、草を掻き分けることなく見学出来ます。
東西は断崖で、台地先端部①は横堀を幾重にも巡らせています。
その上に横長な②~③の腰曲輪を連ね、一番上に主郭④があります。
台地付け根側は⑤の堀切で断ち切り、東側の⑥には堀が複雑に巡ります。
佐田城で疲れ果て「1か所くらいいいや」で飛ばしましたが・・・
最終日に「少し時間余ったから」で立ち寄りました。
「来て良かった


東院内コミュニティセンターと城跡
諸兄は「道の駅に駐車」と紹介します。
でも、訪ねてみたらすぐ脇に停められる所がありました。
地形的には出城があっても良さげな所です。

①-2 コミュニティセンターと城跡の間の道
城跡は公園の一部となっていますが、遺構はほぼ完存しています。
じっくり味わいながら見学するなら、北側から登ることをお勧めします。
右手前に階段が見えますが・・・
ここから登るのはちょっと勿体ないです。
奥に見える白い板の所まで進みましょう!

①-3 案内図
上の写真で見えた白い板です。
一応城跡も描かれていますが、縄張図的なものではありませんでした


①-4 登城口
白い板の脇に階段があり、上がれるようになっています。
ここから、既にワクワクな光景がチラっと見えています


①-5 横堀
上の写真では見えづらいですが、横堀が幾重にも連なっています

1本1本がとてもハッキリしていて、そんな堀が連なっています。
山の麓で横堀が連なっている光景は、よそでは記憶にありません。
ここの城主様が他国出身というのも関係あるかもしれません。
そっちの地方では当たり前の構造かもしれませんが




①-6 横堀
とにかく1本1本がとても魅力的で、つい1本ずつ折り返してしまいます。
こういうのって「畝状横堀」とか呼ばないんでしょうかね?

②-7 道
最後の1本まで来ると、右脇から斜面脇を通る道が現れます。
下には連なった横堀があるのに、歩きやす過ぎる道です。
公園を造成した時に造られた道かもしれません。・

②-8 腰曲輪
道沿いには、小さな腰曲輪が段々に連なっています。
道から入るような造りではなく、ただ道端に見える感じです。

②-9 大きな腰曲輪
それでも、流石にこれだけ大きな腰曲輪だと入口があります。
やっぱりお城の虎口とは思えない造りの入口です。
そこから入った曲輪はかなり広く、真ん中に屋根付きの舞台があります。

③-10 櫓台
大きな腰曲輪の奥には、こんもりとした土の出っ張りがあります。
ここに「櫓台」と書かれた案内が立っています。
木が無ければとても見晴らしが良さそうです。

③-11 櫓台から
木々で遠くは見えませんが、足元はよく見えます。
上から見る幾重にも連なる横堀は、堀好きには堪りません


③-12 虎口
さらに、櫓台付近には虎口まであります。
上がって来た通路側には無い案内が、こちらにはあります。

③-13 虎口の外側
内側から見れば確かに虎口なのですが・・・
ここ下りられる???という急斜面が待っています。
もしかして、削られてしまったのでしょうか。
下にちょっとだけ見えるのは竪堀っぽいですが。

④-14 主郭入口
腰曲輪から元の道に戻り、再び上がる道が現れます。
この虎口、やっぱり本物っぽくなく感じます。

④-15 主郭内部
階段を上がると、土塁に囲まれた空間がありました。
ここが主郭です。
そこかしこに小さな石塔が散在しています。
奥に見えるのが土塁と櫓台です。
・・・似たものどうしかもです。

④-16 主郭虎口
主郭へは西側から入りましたが、これは東側にあります。
西側の入口にはこれが無かったので、やはり後付けだったようです。

④-17 虎口の外側
腰曲輪の虎口の外側は断崖でしたが・・・
こちらの外側は、腰曲輪へと続く細尾根状の土塁でした。
攻め寄せる敵を1列で登らせて、上から狙い撃ち!ですね☆彡

④-18 主郭東側の土塁
主郭の真ん中にこんもりとあるのは「土塁」でした。
この上に建物を建てると、いかにもそこに城主様が居そうに感じます。
これが櫓台でないのは、すぐ右隣にもこんもりがあるからです。
そちらには「櫓台」と案内がありました。

⑤-19
西側の通路へ戻り奥へ進むと、突然この堀切様が現れます

岩盤断ち切りの超気合の入ったお方です。

⑤-20 連続堀切-竪堀
上の堀切様を通り抜けると、開けた風景になります。
奥の台地上は公園となっていますが、その手前に連続堀切があります。
舌状台地からお城を分断する厳重な構造となっています。

⑤-21 二重竪堀
堀切は東側斜面へと続き、そのまま竪堀となっています。
畝状竪堀は目が慣れないと見えませんが、これはハッキリ見えます


⑤-22 連続堀切側から見た主郭の切岸
最後に東側の堀を見に行ったのですが・・・
連続堀切から主郭側へ戻ると、こんな岩の壁が待っています。

⑥-23 東側の横堀群入口
上の絶壁の所を右へ進むと、土塁で誘導されるようになっています。
主郭上から覗き込んだだけでもアドレナリン出まくりましたが・・・

⑥-24 東側の横堀群
実際に下りて見ると、まるで迷路のように横堀が連なります。
超久々にエクトプラズムが出まくりました




⑥-25 竪堀
こちら側の斜面には、畝状程ではありませんが数条の竪堀があります。
急斜面なので、横移動阻止というよりも進路限定が用途のようです。
こんな竪堀を登らされた兵は、絶望的な気持ちだったことでしょう。
◆歴史◆
副氏の城でした
副氏は、天文(1532~55年の間)初め頃に但馬国から来た一族です。
名は伝わっていないのか隠されているのか「副越中守某」です。
しかし、名を明かさないものの「出石城主」とは記しています。
出石城は、1574年に有子山城の麓に築かれた居館を前身とします。
さらにここが「出石城」になったのは、1604年の事です。
まぁ、その前の本拠・此隅山城があったのも出石ではありますが。
後世の人が語るのにピッタリだったのが「出石城」だったのでしょう。
ということで、副氏は山名一族と推測します。
1532年頃わざわざ遠く九州に移り名を伏せたのには、事情がありそうです。
当時の山名家は、但馬守護(宗家)と因幡守護(分家)が争っていました。
その但馬の宗家内では当主の権威が失墜し、四天王が実権を握っていました。
1532年より少し前にあったとすると、山名家の当主交代です。
1528年、山名誠豊が没し、山名祐豊が当主となりました。
山名祐豊は山名誠豊の兄・山名致豊の子です。
・・・そろそろ脳内ヤバくなって来たので、相関図付けます


但馬国守護となった山名祐豊は、父の仇討ちを始めます。
その余波は、叔父・山名誠豊が擁立した因幡国守護家にも及びます。
ということは、山名誠豊の遺族もその対象になったものと思われます。
豊前国宇佐郡に流れて来た「出石城主某」は、大友義鎮を頼ります。
当初は宇佐郡黒水に滞在し、後に副村を与えられて城を築きました。
この時に副姓を名乗ったと『宇佐郡地頭伝記』にはありました。
ただ情報が錯綜しており、諸兄の中でも色んな説が飛び交います。
まず、但馬国から来たのが副但馬守、副甲斐守、副越中守とバラバラ。
『宇佐郡地頭伝記』は副越中守が城を築き、子が副但馬守とあります。
そして、1556年に龍王城で抗した後、大友義鎮に謁して没しています。
1556年に龍王城に籠ったのは、大内家臣の宇佐郡衆達のハズですが・・・
龍王城は、副城から東に約3kmと至近距離にあります。
ご近所付き合いを断り切れず、巻き込まれたのでしょうか?
『香下文書』には、宇佐郡三十六人衆着到の中に副但馬守の名があります。
大友義鎮が宇佐郡を制圧した後、謁見した人達と思われます。
この中には、以後宇佐郡代として活躍する佐田弾正の名もあります。
・・・私がネット上の史料で見つけられたのはこれだけです

所在地:大分県宇佐市院内町大副 GPSログダウンロードページ
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