2014/05/24
小菅沼城/富山県魚津市
小菅沼城は松倉城への登城路の途中にあります。訪問日は2012年8月7日です。
この日は大気の状態が不安定。晴れと土砂降りが交互に繰り返すお天気、というのはよく覚えてます。すぐ近くまで来て大きな木の下で雨宿りしたりしていました。
肝心の道のりは・・・かなりテキトーでした。案内は出ていなかったように記憶していますが、特に迷わずに辿り着きました。地図見直しても、どういうルートだったか思い出せないんですけどね


▲標柱
城跡は道沿いにあるので、城域に入ると何となく分かります。城キチなら何でも城跡に見えるので、確かめてから「あ、やっぱり」ですがwこの標柱を見つけて確信しました。標柱には「武隈屋敷跡」と書かれていますが、小菅沼城と同義です。

▲石垣
辺りをキョロキョロと見回すと、早速石垣が!雰囲気は軍事拠点というよりも、立派なお屋敷という感じがします。城と館をどう線引きするか、というのもありますが・・・

▲土塁・空堀
ただ、こうやって堀や土塁まであると、屋敷から城に発展したのかな?とも感じます。館と城をどうやって区別するのか知りたい気もしますが・・・素晴らしい遺構を見ていると、こういうのが見れればどっちでもイイヤ!って思います。

▲説明板
そして説明板。
気になるその内容は・・・
是非現地でwww
ここの次に松倉城へ行きました。当初の予定では一度麓に下って、別の道から松倉城に登ることにしていましたが・・・小菅沼城脇の道から松倉城へ行ける案内があったので、その道から行きました。ただ、車同士ではすれ違えない位に狭い林道だったと記憶しています。
◆歴史◆
1341年、武隈元長が三百山に居を構えました。
足利尊氏の命により、椎名胤明が相模から松倉城に入りました。この時に家老の武隈元長も一緒に越中へ移り、三百山に館を構えました。三百山は魚津側が大手、松倉城側が搦手であり、松倉城の出城としても機能したようです。
1530年、神保長職が神通川を越えて椎名領を侵食しました。
この時は常願川を神保氏と椎名氏の境とすることで落ち着きました。神保長職は富山城を築き、椎名氏に対する前線拠点としました。
1559年、神保長職が再び椎名氏を圧迫しました。
椎名長常は神保氏との屈辱的な和睦に耐えていたようですが・・・おそらくこの頃に椎名康胤が家督を継いだものと思われます。松倉城まで攻められた椎名氏は、長尾景虎(上杉謙信)に援軍を要請しました。長尾景虎の仲裁により兵を引いた神保軍でしたが、その後も椎名領を脅かし続けました。
1562年、再び神保軍に松倉城が攻められました。
この時は援軍の上杉政虎(謙信)が本格的に攻めたため、神保長職は降伏しました。しかし、神保氏は能登の畠山氏を後ろ盾として本拠の支配は安堵されました。
1568年、椎名康胤が武田信玄と手を結びました。
上杉軍が畠山義綱の七尾城奪還のため能登に攻め込んでいる最中でした。椎名康胤がなぜ上杉輝虎(謙信)を裏切ったのか、その理由はわかりません。上杉軍は松倉城を攻めましたが、なかなか攻め落とすことが出来ませんでした。
1571年、松倉城が上杉軍に攻め落とされました。
椎名康胤は礪波へ落ち延び、一向一揆に加わって上杉謙信への抵抗を続けました。この時、武隈氏は椎名氏に従って礪波へ移ったとされています。
1576年、主君・椎名康胤が自害しました。
上杉方への復帰も模索していた椎名康胤ですが、謙信にはあっさり拒否されました。そのため、蓮沼城で上杉軍への抵抗を続けていました。しかし、ついに蓮沼城も攻め落とされ、この時に椎名康胤は自害したとされます。ただ、椎名康胤終焉の地は諸説あるそうで、はっきりしたことはわかりません。武隈氏は椎名康胤が滅びるまで従っていたそうです。
1595年、武隈元重が帰農して三百山に戻りました。
武隈家記によると、このときに三百山を小菅沼と改名したのだそうです。松倉城の廃城が丁度この頃のようなので、関係あるのかもしれませんね。
大正時代、武隈氏は他県へ引越しました。
現地の説明板によると、大正時代まで武隈氏はここで暮らしていたそうです。他県がどこなのかはわかりませんが・・・元が椎名氏の家老だった家柄とはいえ、近代まで城に住み続けたなんて凄いです^^
所在地:富山県魚津市小菅沼
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