2014/03/30
木舟城/富山県高岡市
木舟城跡は田んぼの真ん中にあります。訪問日は2012年8月6日です。


▲説明板(図を拡大)
木舟城跡は田んぼの一角が公園となっています。遠目には松の木が固まってあるので、場所は分かりやすいと思います。さらに、説明板が2枚も!描かれている城の想像図がいいですね。田んぼの真ん中の微高地を要塞化したイメージが浮かびます。


▲城址碑とその裏の説明文
道端には立派な城址碑もあります。私は多分、こいつに釣られて行ったんですね・・・w城址碑にもいろんなのがあって、城めぐりの楽しみの1つでもあります。この城址碑の裏には説明文が。地震で廃城になるなんて珍しいですね。


▲城跡の様子
周囲は田んぼになっていますが、城跡は何とか面影をとどめています。土の盛り上がりは土塁の跡でしょうか。今ここで立て篭もってもすぐに突破されそうですがw
◆歴史◆
1184年、石黒光弘により築かれました。
石黒氏は越中西部の豪族で、木曽義仲に従っていました。前年にあった平家との倶利伽羅峠の戦いで活躍したそうです。以後、石黒氏は福光城(南砺市)を本拠にしましたが・・・
1481年、福光城の石黒光義が一向一揆に敗れて自刃しました。
加賀守護・富樫親政が勢力を拡大する一向一揆を弾圧しました。そのため、加賀の一向一揆が隣の越中に逃げ込みました。彼らを脅威に感じているのはどこの領主も同じな訳で・・・福光城主・石黒光義は、越中一向一揆の本拠・瑞泉寺を攻めました。しかし返り討ちに遭い・・・福光城を本拠とする石黒氏本家は、安居寺で自害しました。その結果、木舟城の石黒氏庶流が勢力を伸ばしました。石黒氏は以後、一向一揆と戦い続けました。
1574年、上杉軍に攻められ降伏しました。
石黒氏の去就について書かれたサイトがあまり無いのですが・・・以後の動きも含めて考えると、神保氏に従っていたように感じます。大体同じような動きをしてますので。
1578年、上杉謙信が没すると、織田信長に従うようになりました。
ここも大体他の越中国人衆と同じ動きです。上杉謙信が没して家督争いが起こると、織田信長は越中侵攻を本格化しました。この時に先鋒を務めたのが神保長住でした。神保長住は神保長職の嫡男でしたが、上杉氏への対応を巡り父・長職と対立しました。そのため出奔し、京で織田信長に仕えるようになっていました。神保長住が越中に侵攻すると、神保旧臣は先を争うように織田軍に寝返りました。
1581年4月、上杉軍の吉江宗信に攻め落とされました。
吉江宗信はかつての神保氏の居城・増山城を守っていました。織田軍の侵攻を必死で食い止めていましたが・・・木舟城を攻め落とした後、織田軍により増山城を攻め落とされて魚沼城へ退却しました。
1581年7月、城主・石黒成綱が近江に呼び出され討たれました。
織田信長は、越中の国人衆を近江に招きました。しかし、途中でそれが謀殺目的であったことを知り、石黒一族は逃亡しましたが・・・長浜で丹羽長秀の配下に見つかり、討ち滅ぼされました。木舟城に残っていた石黒宗信らは城を脱出して逃れました。以後、佐々成政の重臣・佐々平左衛門が城主となりました。
1584年、末森城の戦いで、佐々軍は木舟城から出陣しました。
越中一国を支配していた佐々成政は、加賀・能登の前田利家に戦を仕掛けました。そのため攻め込んだのが末森城で、加賀と能登を分断する意図がありました。戦いは前田軍が末森城を守り切り、佐々軍は撤退しました。
1585年8月、前田利家の弟・前田秀継が城主となりました。
佐々成政が豊臣秀吉により討伐され、越中が前田利家に与えられました。木舟城には前田利家の末弟である前田秀継が城主として入りました。
1585年11月、天正大地震により城主・前田秀継が圧死しました。
この地震により、城は9mも沈下したそうです。城主夫妻の遺体が見つかったのも3日後だそうで・・・原形を留めない位に破壊されてしまったのですね。
1586年、廃城となりました。
上洛する上杉景勝を木舟城に迎えたので、城を修復する予定だったのかもしれません。しかし、結局のところ木舟城はこの年の内に廃城となりました。
所在地:富山県高岡市福岡町木舟
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