2014/03/16
太田本郷城/富山市
太田本郷城跡はおおかた水田となっています。訪問日は2012年8月7日です。

▲城址碑と説明板
太田本郷城は長らくその位置が特定されていなかったそうです。1991年に城址碑付近の発掘調査が行われ、その際に東へ延びる堀が見つかりました。そこでは安土桃山時代のものと見られる土器が大量に見つかったそうです。なので、城址碑周辺が城跡だというのは間違いないようです。ただ、見渡してみてもそれらしい面影は見当たらず・・・Google Mapを眺めていると、城址碑の東側の南北に長い島状の住宅街がそれっぽく見えます。


▲浮田家住宅
その「それっぽい所」にあるのが浮田家住宅です。浮田家は1693年に3代目・宗兵衛が加賀藩より奥山廻役を拝命したそうです。当初の禄高は500石でしたが、代官職も兼ねた7代目の頃は3千石まで加増されました。奥山廻役とは山林保護や国境警備のため見回りをする役職だそうです。明治時代に職制が廃止されるまで、代々浮田家が継いだそうです。・・・ということで、代官様のお屋敷なら城跡にあってもおかしくないですよね!
◆歴史◆
1572年、上杉家臣・河田長親が陣を張りました。
これが太田本郷城の始まりだそうです。この時は一向一揆との戦いのために陣を張ったそうです。その翌年には今泉城の支城として城を築きました。
1578年、織田軍に占領されました。
上杉謙信が没すると、織田信長は越中侵攻を本格化させました。飛騨から神保長住や斎藤利治が侵攻し、城生城の斎藤信利・信吉兄弟が織田軍に寝返りました。全ての城を守りきれないと判断した河田長親は、今泉城に兵を集めて防戦しました。そのため、空の太田本郷城には斎藤利治が入って占領しました。
椎名駿河守が上杉方から織田方に寝返り、太田保を与えられました。椎名駿河守は上杉軍に追われた椎名康胤の養子・長尾景直と考えられています。しかし、椎名駿河守と太田本郷城のその後についてはわかりません。
江戸時代はじめ頃に豪農・浮田家が館を構えたのが城跡だろうと思われます。浮田家の出自はよくわかっていませんが、宇喜多氏の一族だという説があります。前田利家の4女・豪姫が宇喜多秀家に嫁いでおり、両家はとても親しかったそうです。しかし、関が原の戦いで宇喜多秀家は西軍の大将だったため、戦後は八丈島へ流されました。前田家は宇喜多家との連絡を、宇喜多一族の浮田氏を介していたと考えられています。
所在地:富山市太田南町
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