2014/03/16
松任城/石川県白山市
松任城は現在の松任駅前にありました。訪問日は2012年8月6日です。


▲松任城址公園
行く前に見たサイトはみんな「おかりや公園」と書いてあった気がしたのですが・・・現場に着いてみると「松任城址公園」となっていました。場所が場所だけに迷うことはありませんでしたがw


▲本丸
城跡としての遺構は全くありません。駅前の超一等地ですが、本丸跡は公園となっています。城跡としてのよすがは碑や説明板だけですが・・・

拡大図

▲略年表の碑
略年表の碑には往時の想像図が描かれています。なんか建物がチョット・・・なんて贅沢言っちゃぁイケマセン。描かれている地名?にちょっと感慨深いものもありますが・・・やっぱり、もーちょっとリアルなのがいいかも(・×・;)
◆歴史◆
略年表の碑に刻まれたものをちょっとだけ調べてみました!
1176年、加賀守である藤原師高の目代・藤原師経が館を築きました。
藤原師高は後白河法皇の近臣・西光の子で、加賀国の遙任国司でした。現地には弟の藤原師経を派遣して加賀国を支配していました。師経は翌年、比叡山の末寺・白山涌泉寺と紛争を起こしました。そのため比叡山の僧兵が禁裏へ強訴して、警備に当たっていた平重盛の兵と衝突しました。この時に矢が神輿に当たり死者も出たため、事態はさらに悪化しました。
詳細は省きますが・・・朝廷の権力争いに発展し、平清盛が台頭するきっかけとなりました。
1577年、上杉謙信に攻められました。
上杉謙信は能登へ侵攻し、七尾城を包囲していました。七尾城の長続連は織田信長に救援を求め、柴田勝家が援軍として出兵しました。この時既に七尾城は内応者が出て落城し、上杉軍は織田軍を迎え討つ動きをします。その際に松任城が上杉軍に攻められましたが開城し、上杉謙信が入城しています。一方、織田軍が七尾城落城を知ったのは、大河・手取川を渡った直後でした。織田軍は背水の陣となった上、雨で鉄砲が使えない状況で上杉軍が攻め掛かりました。ザックリ書くと、これが手取川の戦いです。
1580年、柴田勝家の家臣・徳山五兵衛が代官となりました。
手取川の戦いの後、上杉謙信が脳溢血のため世を去りました。すると、織田軍は加賀・能登・越中への侵攻を開始しました。松任城も柴田勝家軍に攻められ、一向一揆の将・若林長門守は降伏しました。しかし、和議の席で若林長門守は子ともども騙し討ちに遭いました。戦後、松任城には徳山五兵衛が代官として入りました。
1583年、前田利長が城主となりました。
織田信長の没後、柴田勝家は羽柴秀吉と対立しました。そして1583年、賤ヶ岳の戦いの後、北ノ庄城が攻められ、柴田勝家は滅ぼされました。戦後、加賀2郡を与えられた前田利長が城主となりました。
1585年、前田利長家臣・寺西秀則が城代となりました。
寺西秀則は佐久間信盛の家臣でしたが、主の失脚後は同郷の前田利家に仕えていました。佐々成政に末森城を攻められた際、援軍として従軍し活躍しました。佐々成政が豊臣秀吉に討伐されると前田利長が越中に移り、寺西秀則が城代となりました。
1600年、前田利長家臣・赤座吉家が城代となりました。
赤座吉家は関が原の戦いでは西軍につき、大谷吉継の指揮下にありました。小早川秀秋が寝返った後、脇坂安治、朽木元綱らとともに東軍に寝返って大谷軍を攻めました。しかし、事前通告が無かったとして論功行賞では評価されず、所領を没収されました。赤座吉家は朝倉氏の家臣だったようで、府中時代の前田利家との縁で前田利長に仕えました。
1614年、一国一城令に先立ち廃城となりました。
この時の加賀藩主は名君の誉れ高い前田利常でした。前田家は100万石の外様大名であり、改易されないため苦労は絶えませんでした。そのため前田利常は奇行を装っており、数々のエピソードが伝わっています。松任城を廃城にしたのも、この流れに沿ったものと思われます。
1657年、外堀が埋め立てられました。
1934年、内堀が埋め立てられました。
1967年、おかりや公園となりました。
2007年、松任城址公園と改名されました。
所在地:石川県白山市古城町(松任城址公園)
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