2022/02/02
鉄輪ヶ城/大分県杵築市
鉄輪ヶ城は、白川稲荷のある山の山頂にありました。訪問日は2021年12月31日です。

ナビは途中までしか出ませんでしたが・・・
道は舗装され白川稲荷の案内があり辿り着けました。
白川稲荷から先は道はありませんが、②に案内があります。
そちらへ向かってズンズン山歩きをすると、③に堀切が。
その先の一番高い所が城跡です。
城は2つの曲輪で構成され、最初に着いた山頂が主郭です。
その南側に堀切があり、東西に細長い⑥が二郭です。

①白川稲荷の参道
私はこの手前のいかにもな駐車場に車を停めました。
そこから歩きましたが、この先にも広い駐車場があります。
稲荷神社は道の右側の石段を登った先にあります。
いつもなら城跡付近の神社に手を合わせに行くのですが・・・
ちょっと高い所にあるのが見えたので、足が向きませんでした。
突き当りに大きな駐車場があり、そこからは山道となります。

②城跡の案内
神社から先は、ほぼ道がありません。
ただひたすら真っすぐ進むと、オレンジ色のプレートがあります。

②城跡の案内
山キチ様達には見向きもされない山ですが、捨てる神あれば拾う神あり!
ここで直角に左へ曲がり、ひたすら高い所目指して登ります。

③手前の堀切
すると、ぼこっと凹んだ堀切様がお出迎え

昔はもっと深くて鋭かったに違いありません。

④主郭
堀切から間もなく、ちょっと窪んだ所から上がった所が主郭です。
そのちょっと「窪んだ所」は虎口らしいです

そんな事が気にならない位に小じんまりした山城ですが。

④主郭にあるオレンジ色のプレート
案内がある位なので、主郭にももちろんいらっしゃいました^^
標高が書いてあるのはサービスでしょうか。
こういうのを見て、城キチは「高みへ昇れ!」と刷り込まれるんですねw

④主郭にある渋いヤツ
ここには他にも、こんな渋い方もいらっしゃいます。
なぜかこちらにも標高が書かれています。
別に高い所が好きで来た訳ではないんですけどネ。

④主郭にある説明板
さらに、奥まった所の木の手前に、こんな説明板があります。
登って来た時には木の説明板かと思ってスルーしちゃいました。
帰りに「どんな木?」と気になって見たら、お城のでした。
しっかし、上2つとこれとでみんな表記が違います。
竜ケ崎市内を走った時に表記がバラバラだったのを思い出しましたw
きっと地元の方でも、どれが正解かわからない人が殆どなんでしょうね。

⑤南側の堀切
主郭の奥にも、手前のと同じような堀切様がいらっしゃいます。

⑥二郭
南側にある東西に細長い二郭があります。
とはいえ削平は甘く、言われなければ曲輪とは気付きません。
そんな二郭の南脇が、犬走っぽくなっています。

⑥二郭の先にある岩
その犬走っぽい所の先に何かあるのかもしれない・・・
そう思って、とりあえず歩いてみました。
するとその先端は、手前がちょっと凹んだ高台になっていました。
今は名もない岩場ですが、物見をした場所なのかもしれません。
◆歴史◆
丹後国から来た田辺氏により築かれたと伝わります
ソースは少ないですが、丹後から来た田辺家貞により築かれたとされます。
田辺家貞がどのような人物だったのかが?ですが・・・
説明板には1558年に城を築いたと書かれています。
他に伝わる田辺氏は
・田辺伊予守鎮元が天正の頃に白川稲荷を勧請
・1586年、田辺美濃守経基が島津軍に攻められ落城・自害
・1600年、田辺義親は石垣原の戦を離脱し帰農
などです。
通字も官職もバラバラなので、かなりの人数が居たようです。
いずれの田辺氏も、吉弘氏に従っていたと書かれていました。
それ以前の年代に登場しないので、戦国時代に丹後から来たようです。
では、なぜ丹後から豊後に移って来たのかが気になりました。
大人数っぽいので、何かの争いに敗れて落ち延びたのかもしれません。
しかし、丹後側で調べてみても、大した情報が出て来ません。
丹後で本拠だったのは引土城で、守護大名の一色氏に仕えていました。
1558年前後では一色義幸が当主で、若狭武田氏と戦っていました。
戦国時代には、その子孫の長江小太郎が城主だったそうです。
長江小太郎は田辺姓も名乗り、一色氏滅亡後は細川家に仕えました。
出て来たのはそれ位で、ほぼサッパリ?です

所在地:大分県杵築市大田波多方 GPSログダウンロードページ
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