2014/03/15
津幡城/石川県津幡町
津幡城跡には津幡小学校があります。訪問日は2012年8月6日です。

▲城址碑周辺
津幡城は津幡小学校のある小高い所にありました。小学校の駐車場に入ってすぐ左側に、植物で囲まれた壇があります。真ん中に見える高い碑は・・・城址碑ではありません


▲説明板
この碑は忠魂碑だそうです。その入口の所にある白い板。こちらには津幡城について書かれています。

▲城址碑
城址碑は忠魂碑の脇にひっそりとあります。背が低く文字もうっすらなので、存在感が・・・

◆歴史◆
1183年、平維盛が倶利伽羅峠の戦いの時で砦を築いたのが始まりとされます。
信濃で挙兵した木曽義仲は、勢力を拡大しながら北陸へ進出しました。これに対して平家は、平維盛を大将に10万の軍勢で討伐に向かいました。越前、加賀では順調に勝利を収め、越中でも勝利を収めました。
しかし、砺波で木曽軍の今井兼光が平盛俊を破ったため平家軍は加賀へ後退。平家軍の主力は砺波山、一部は能登の志雄山に陣をとりました。この時に後に津幡城となる場所に平家軍が砦を築きました。
木曽軍は平家軍の油断を誘った後、砺波山の平家軍本隊に夜襲をかけました。大きな音を立てて急襲したため、浮き足立った平家軍は総崩れとなりました。この時に平家方の兵士達は、木曽軍が唯一攻め寄せていない方向へ逃げたのですが・・・暗闇の中、深い断崖へ次々と転落していったそうです。
これが倶利伽羅峠の戦いです。大軍を失った平家は一気に劣勢となり、都落ちすることとなりました。
その後、津幡隆家が砦跡に居館を築いたようです。津幡隆家は加賀国井家庄の地頭を務めていました。しかし1190年、領家に叛いたため地頭職を剥奪され、以後史料に登場しなくなります。
1351年、富樫氏春が桃井直常との戦いで拠点としました。
富樫氏は加賀の有力豪族で、足利尊氏に味方して加賀守護となりました。一方、桃井氏は足利氏の支族で、上野国桃井が本拠地です。桃井直常は足利直義に仕え、若狭・伊賀・越中守護を務める有力者でした。
足利尊氏と弟の足利直義が対立した観応の擾乱では、富樫氏と桃井氏は戦いました。上洛を目論む桃井直常を、加賀の富樫軍が阻止したそうです。
1488年、加賀守護・富樫政親が一向一揆に攻められ自害しました。加賀守護は富樫氏が継ぎましたが傀儡で、実際には一向一揆が支配していました。
1531年、大小一揆で本願寺と加賀一向一揆が対立し、津幡も戦場となりました。この戦いでは富樫泰俊は加賀一向一揆に味方して敗れ、越前へ逃亡しました。以後、加賀国は本願寺から派遣された代官により支配されました。
1546年、本願寺により加賀支配の拠点として尾山御坊(後の金沢城)が築かれました。
1573年、越前で朝倉義景が織田信長に滅ぼされました。
1574年、越前でも一向一揆が織田家臣を討って越前を支配しましたが・・・
1575年、織田信長が越前に侵攻し、老若男女を問わず一向一揆を討伐しました。
1580年、加賀一向一揆の拠点・尾山御坊が織田軍に攻められ落城しました。
1581年、津幡城が織田信長に攻められ落城し、廃城となりました。
柴田勝家、佐久間盛政、長連龍らの軍勢に包囲されて落城しました。織田軍はそのままの勢いで能登・越中を平定。軍事拠点としての意義が無くなったためか、一時廃城となりました。
1583年、前田利家により再築城されました。
一向一揆討伐後、加賀・能登に前田利家、越中には佐々成政が配置されました。本能寺の変後、織田家中では羽柴秀吉と柴田勝家が対立して戦となりました。賤ヶ岳の戦いで前田利家、佐々成政ともに柴田勝家に味方していました。しかし、決戦直前に前田利家が羽柴秀吉方に寝返りました。戦後、佐々成政は越中を安堵されましたが・・・不穏な空気が漂っていたんですね。
1584年、小牧・長久手の戦いでは佐々成政が前田利家の末森城を攻めました。これは前田利家の加賀と能登の連携を絶つためだったそうです。末森城は落城寸前でしたが、前田利家の援軍が駆けつけて守り切りました。佐々軍は越中へ撤退しました。
1585年、津幡城は廃城となりました。
佐々成政が豊臣秀吉との戦いに敗れ、越中のほぼ全域が前田利家に与えられました。津幡城は佐々成政との戦いに備えて整備していましたが、役目が終わり廃城となりました。
1965年、津幡小学校が建設されました。
この時に遺構が破壊された模様です。
詳しい事はわかりませんが・・・
所在地:石川県河北郡津幡町清水(津幡小学校)
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