2014/03/09
小松城/石川県小松市
小松城は小松市役所や小松高校辺りにありました。訪問日は2012年8月6日です。

▲天守台
小松城の遺構としては、天守台と内堀石垣の一部、移築門があります。まずは一番立派な天守台から。小松高校のグラウンド脇にあります。父の母校なので、感慨にふけりながらの見学です。
石垣はまだら模様で、金沢城の石垣と同じ石を使っているようです。加賀藩主の隠居城として大改修しているので、当然かもしれませんが。この石垣はとても綺麗ですが、復元ではないそうです。ビシっと隙間も無く、とても立派ですね



▲説明板と縄張図(図を拡大)
その天守台の脇には説明板があります。この説明板には現在の地図と当時の縄張図が重ねて描かれています。こうして見ると、城が徹底的に破壊されたことがよくわかります。堀跡が道になってるというもの無く、まさに完全に平地にならされてます。

▲内堀の石垣
天守台とともに現存する石垣が、天守台の脇にある内堀の石垣です。堀が埋め立てられたので低いですが、かつては城の周りをビッシリ囲んでたんですね。外様大名がバタバタと潰されていく中、100万石を守り切った名君らしい城ですね。

▲来生寺山門(元・小松城鰻橋門)
かつては城域の端っこだったかもしれない所に来生寺があります。その山門は小松城取り壊しの際に移築された鰻橋門です。それにしても、長屋門が山門になってるのは珍しいかも。これが現在唯一残っている小松城の建築物です。
◆歴史◆
1575年、加賀一向一揆の若林長門守により築かれました。
この時はまだ名前が無かったらしく「海岸に新しく造られた城」と呼ばれていたようです。
1573年に朝倉氏が滅んだ後、越前は桂田長俊が守護代として治めていました。しかし、悪政のため評判が悪く、富田長繁により討ち果たされました。この時、富田長繁は越前一向一揆を利用しましたが、一揆勢は後に暴走。加賀一向一揆から七里頼周を大将に迎えて、武士 vs 一揆となりました。
富田長繁は一揆勢だけでなく部下からも見放され、戦の最中に部下に殺されました。こうして越前は領主不在の国となりました。
1575年、織田信長は越前一向一揆の討伐を行い、各地で容赦ない殲滅戦を展開。越前の一向一揆を平定し、柴田勝家を越前の領主としました。
1579年、村上義明が城主となりました。
越前を平定した織田信長は、引き続き加賀の一向一揆平定に乗り出しました。小松城には柴田勝家が攻め寄せましたが、若林長門守はよく守りました。そこで和議を結ぶことになりましたが、その席で若林父子は騙し討ちに遭いました。その首は安土城下で晒されたそうです。
1598年、丹羽長重が城主となりました。
村上義明は出自は不明ですが、丹羽長秀に仕えていました。1585年に丹羽長秀が没した後は豊臣秀吉の直臣となり、さらに堀政秀に仕えました。堀秀政とともに越後に移ると、領地・本庄の地名を「村上」に変えました。その村上家は1618年、重臣の暗殺が相次いだだめ改易されました。
丹羽長重は父・丹羽長秀が没した後は豊臣秀吉に警戒され、かなり没落しました。父の代にあった加賀の一部・越前・若狭123万石の所領は若狭一国16万石に激減。さらに、九州征伐では兵士が狼藉を働いたとして加賀松任4万石にまで減らされました。しかし、小田原征伐での功が認められ、小松12万石に加増移封されました。8年も経ってるのですが・・・豊臣秀吉が死の直前にやった大盤振る舞いっぽいです。
1600年、前田利長の城となりました。
丹羽長重は関が原の戦いで西軍に味方したため改易されました。その後は各地を転々としましたが、最終的には10万石の大名に復帰して家名を残しています。
この時に丹羽長重と戦った前田利長に小松の地が与えられました。城代は利長の義兄・前田長種です。前田家の本家筋ですが、小牧長久手の戦いで城を落とされ、前田利家を頼りました。前田長種は前田利家の娘を娶り、前田利常の養育もしたそうです。
1615年、一国一城令により廃城となりました。
1639年、前田利常の隠居城として大規模な改修を受けました。
隠居城とはいいながら、その面積は金沢城の倍あったそうです。この時に二の丸、三の丸、葭島、琵琶島などを増築しました。梯川の水を引き入れて周囲を沼地と化し、とても実戦的な城へと変貌しました。
1872年、廃城となりました。
前年に廃藩置県があり、翌明治5年より小松城の取り壊しが始まりました。この時に鰻橋門が来生寺に移築され、建築物の遺構として唯一現存しています。
所在地:石川県小松市丸の内町
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