2014/03/08
龍門寺城/福井県越前市
龍門寺城跡には、その名の通り龍門寺があります。訪問日は2012年8月5日です。
▲山門と説明板
龍門寺は越前市の市街地の真ん中にあります。なので、周囲の道はとても細いです。方向音痴の私にはちと辛かった記憶が。・・・地図見てもそんな風に感じられないんですけどね


▲城址碑
上の写真にも小さく写ってはいるのですが、一応城址碑があります。高さはヒザくらいの高さだった気が。こんなんでも、あるだけでとても気分が盛り上がります

◆歴史◆
1299年、悦巌崇禅が龍門寺を開創しました。
曹洞宗のお寺です。
曹洞宗といえば、総本山は永平寺。
けっこう近所ですw
1573年、織田信長が朝倉義景攻めの際に陣を構えました。
織田信長が北近江の浅井長政を攻めた時、朝倉義景は援軍を出しました。しかし、小谷城に近づくことが出来ず、移動を始めた所で織田軍の奇襲に遭いました。そのまま越前まで退却しましたが、その追撃の際に織田信長が龍門寺に陣を構えました。
朝倉氏滅亡後、越前は朝倉旧臣の前波吉継が支配しました。前波吉継はこの時に桂田長俊と改名しています。府中にも朝倉旧臣の富田長繁が入り、龍門寺城を居城としました。
1574年、富田長繁が越前の領主となりました。
富田長繁は桂田長俊とは不仲だったようで・・・一向一揆の力を利用して桂田長繁を滅ぼしてしまいました。富田長繁は織田信長の元へ赴いて事の顛末を報告。以後、富田長繁が越前の領主となりました。
しかし、富田長繁は桂田長俊を攻めた勢いで、朝倉旧臣・魚住景固まで滅ぼしました。魚住氏とは対立関係ではなかったため、他の朝倉旧臣が富田長繁に近づかなくなりました。
富田長繁は越前支配のため、弟を岐阜に人質に出した噂が広まりました。これにより、一向一揆勢が富田長繁の野心のために利用されたことを悟り憤慨。加賀一向一揆から七里頼周を迎えて、富田長繁に対して挙兵しました。
富田長繁は武勇に優れており、少数の兵で奇跡的な勝利を繰り返しました。しかし・・・無理の上に無理の上に更に無理を重ねていたのでしょう。一向一揆の拠点を攻めている最中、我慢できなくなった部下に鉄砲で撃たれ戦死しました。
1575年、不破光治が城主となりました。
一向一揆を鎮圧した織田信長は、猛将・柴田勝家を越前の領主としました。その与力兼目付として、府中には前田利家、佐々成政、不破光治が置かれました。彼らは府中三人衆と呼ばれ、府中10万石を3人で統治しました。この中で不破光治が龍門寺城を居城としました。
1583年、柴田勝家が羽柴秀吉に滅ぼされました。
不破光治の子・直光は柴田勝家に味方しましたが、戦後は前田利家に仕えました。前田利家は加賀2郡を与えられて尾山城(後の金沢城)へ移りました。不破直光は前田利家に仕えていたため、おそらく一緒に移ったものと思われます。
柴田勝家の後、越前の領主となったのは丹羽長秀です。府中にも誰か城主が入ったと思いますが・・・わかりません

1588年、木村重茲により龍門寺が再興されました。
1585年に越前の領主・丹羽長秀が胃癌のため没しました。あまりの激痛に自ら腹を切り裂いたと伝わる、壮絶な最期でした。
これを好機とばかりに、豊臣秀吉は丹羽家の無力化を図りました。それまで123万石だった所領を、若狭一国の16万石にまで減らしたのです。越前府中にはその若狭から木村重茲が移されました。その木村重茲が龍門寺を再興し、現在に至っています。
所在地:福井県越前市本町
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