2014/03/02
府中城/福井県越前市
府中城跡は現在、越前市役所となっています。訪問日は2012年8月5日です。
▲越前市役所
さすがにここは道に迷いませんでした。市役所に城址碑があるということで庁舎をパチリ。現在のお城ですね!・・・ちと古臭いですがw

▲城址碑
この市役所の真正面に城址碑があります。今も昔も地域の中心地なんですね!

▲説明板(主に前田利家について)
市役所前の道沿いには、主に前田利家についての説明板がありました。大河ドラマって地方に及ぼす影響がとても大きいようで・・・放送中にこうした記念碑的な物があちこちに出来て盛り上がります。放送が終わってもそのまま残りますが、城キチ的には大歓迎ですヽ(´∀`)ノ

▲移築門(正覚寺=新善光寺城跡)
府中城跡には遺構や面影は全くありませんが、近所に府中城の門が移築されています。新善光寺城跡にある正覚寺の山門が、かつての府中城の門でした。こうやって残った門は、いつまでも大切に残して欲しいものです

◆歴史◆
1472年、朝倉孝景が府中奉行所を設けました。
朝倉孝景は、応仁の乱を通じて1471年に越前守護となりました。しかし、同じ守護代であった甲斐氏らとの争いは続いていました。1472年、朝倉孝景は府中守護所の甲斐敏光を破り、新たに奉行所を設けました。これが府中城の前身となります。
甲斐敏光はその後も朝倉孝景と越前の支配権を巡って1481年まで争います。1483年、越前は朝倉氏、遠江は甲斐氏、尾張は織田氏が守護代となることで落ち着きました。
1575年、前田利家が築城しました。
1573年、織田信長が朝倉義景を滅ぼしましたが、越前は不安定な状態が続きました。1575年、織田信長は10万の軍勢で一向一揆を鎮圧し、柴田勝家を領主としました。この時に府中には前田利家、佐々成政、不破光治の三人が置かれました。彼らは府中三人衆と呼ばれ、府中10万石を3人で統治しました。後に所領が線引きされ、前田利家が府中奉行所跡に城を築きました。前田利家が初めて城主となったのが府中城でした。
1581年、前田利長が城主となりました。
前田利家は織田信長から能登一国を与えられて移りました。府中城は前田利家の嫡男・前田利長が引き継ぎました。
1583年、柴田勝家が滅ぼされました。
前田利家は柴田勝家方として羽柴秀吉と戦いました。しかし、賤ヶ岳の戦いでは突然戦線離脱し、そのまま府中城へ帰ってしまいました。どちらにも味方できない前田利家がとった苦渋の策だと思われます。これが決定打となって柴田軍は崩壊し、羽柴秀吉が勝利しました。前田利家は加賀2郡を加増され、佐久間盛政の居城だった尾山城へ移りました。
1585年、木村重茲が城主となりました。
佐々成政攻めで功があったとして、前田利長に越中3郡が与えられました。このため前田利長は越中へ移りました。
木村重茲は木村定重の子で、豊臣秀吉に仕えていました。毛利攻めや賤ヶ岳の戦いでの活躍が認められ、府中12万石が与えられました。
木村重茲が1592年の文禄の役での功により、山城国淀城へ移りました。
木村重茲が淀へ移った時期は文禄の役の直後と思われます。その後、1595年に豊臣秀次事件が起きると連座され、木村重茲は切腹させられました。この頃の府中は誰が城主だったのかわかりませんでした

1599年、堀尾吉晴が城主となりました。
豊臣秀吉の死後、堀尾吉晴は徳川家康に接近しました。老齢のため隠居して家督を堀尾忠氏に譲ると、隠居料として府中5万石が与えられました。
1601年、本多富正が城主となりました。
堀尾吉晴は東軍に味方して出雲へ移りました。代わって結城秀康が越前の領主になりました。その付家老として本多富正が府中3万9千石の城主となりました。府中の本多氏は明治時代まで続きました。
1872年、廃藩置県により廃城となりました。
廃城後、城跡には小学校が建てられました。1956年、小学校が移転して武生市役所が建てられ、現在に至ります。
所在地:福井県越前市府中1丁目
福井県の城跡/なぽのホームページを表示 |
コメント