2022/01/31
沓掛城/大分県杵築市
沓掛城は、大友家の重臣・田原家発祥の地にありました。訪問日は2021年12月31日です。

規模は小さいのですが、堀がしっかりしていてすぐ登れる!
そんな甘い言葉に誘われて訪ねました。
よく紹介される登城口は北側で、反対側の路肩が広くなっています。
東西2つの曲輪と紹介されますが、北側にも広い平坦地があります。
主郭前の堀⑤を通り過ぎると、南側に林道があって19の所に出ます。
個人的には、こっちの方が城跡にアクセスしやすいと思います。

①-1 登城口
諸兄の紹介する登城口です。
パッと見は畑の入口に見えますが、実際そうです。

①-2 案内の石碑
ただし、道の反対側には手作り感満載の石碑があります。
ここの路肩だけ広く、クルマを停めておけます。

①-3 正面から見た所
①-1の入口を登ると、こんな光景が待っています。
登城路があるかのように紹介されますが、城跡方向には何も見えません。

①-4 左へ登る道
城跡とは反対側の左側に道がありますが・・・
方向違うなぁと思いながら進むと、やっぱり遠ざかりますw

①-5 畑のネット
かと言って、あと進めそうなのはネット沿いに右。
とりあえずこちらから進んでみました。
道は無かったので、ネット沿いから先は斜面を直登しました。

①-6 水の枯れた沢
帰りに下って来たのはこの沢です。
道は無く、この沢に沿って進めば人間らしく登れます。

②-7 東側の平坦地
沢を登った所には、明らかに人工的な平坦地があります。
「東西2つの曲輪で構成される」となると、ここは曲輪ではないことに。
確かに2つの曲輪のように堀も土塁も無いですが。

②-8 主郭の横堀
東の平坦地からは、派手な土塁が見えます。
その手前が窪んでいて、真横から見るとこんな感じです


②-9 主郭の虎口
真正面には、土塁がぽっかり口を開けた虎口が。
城キチならずとも、吸い込まれそうな引力を感じます。

②-10 虎口脇にある石積み
虎口の脇には、一部石積みが見られます。
しかし、左右に分かれたこの積み方、最近見たばかりです。
これ、炭焼き窯の積み方デスネ(・へ・)
もう騙されません。

③-11 横堀
虎口からの引力も強かったですが、横堀の方がもっとw
東側の平坦地からは、土塁の外周に沿って横堀が開口しています。
横堀ですが、前の平坦地からだと少し登って堀底を進みました。

③-12 土橋
奥で堀はカックンと曲がり、その先で仕切られています。
この仕切りが、主郭西端と二郭を結ぶ土橋です。

④-13 二郭
二郭は細長い曲輪で、こちらも土塁で囲まれています。

④-14 二郭先端
二郭の西端からは、斜面をまっすぐ下る道が。
これはお城ではあり得ず、神社が祀られてから出来たのでしょう。
後で歩いた林道脇に、この道の入口がありました。

④-15 石宮
二郭の奥には、巨石を屋根代わりにした石宮があります。
絶妙なバランスを保ち続けてる岩、拝みたくなる気持ちもわかります。

④-16 帯曲輪
二郭の土塁の外側には、横堀ではなく帯曲輪があります。

⑤-17 横堀
城内を一周したことだし、次へ行くか・・・
その前に、主郭前の横堀を奥まで堪能しよ!
堀切も毎回端から端まで横切るので、定番の儀式です。

⑤-18 林道
そうやって一番奥まで行くと、意外なものが見えました。
横堀の開口部のすぐ下に、林道がありました。
ここから来れれば楽なので、どこに出るか辿ってみました。

19 林道の入口
ここが、表の道から見た林道の入口です。
かなり特徴的なので、わかりやすいです^^
多分誰も紹介していない、第二の登城口です♪
◆歴史◆
田原直平により築かれたとされます。
築城年代は不明ですが、田原直平により築かれたとされます。
田原直平は、沓掛田原氏の2代目です。
田原直平が活動したのは、1320~1350年代頃です。
鎌倉時代末期から室町時代初期です。
この頃に宝陀寺や田原家五重塔、田原白髭神社などを建てています。

諸兄は「4代田原貞広のとき飯塚城へ移った」と書かれていますが・・・
田原貞広と田原直平は従兄弟で、系統が分かれています。
田原直平の父・田原盛直は、田原貞広の父・直貞の兄です。
本来ならば田原盛直の系統が嫡流では?と疑問が沸いてきます。
その辺は『豊後国志』に事情が記されていました。
田原盛直が没した時、田原直平はまだ幼子だったそうです。
そのため、田原盛直の弟・直貞が田原宗家の家督を継ぎました。
そして、田原直平の系統が沓掛城に拠る分家となりました。
田原盛直の没年がよくわかりませんが・・・
色々ググって出て来る史料の年代は
・鎮西探題・北条英時との戦功により1334年、田口村の地頭となる。
・1345年、宇佐神宮領への濫妨停止命令を受ける。
などです。
田原直平は1320年頃にお寺を建て、父親は25年後も健在・・・
『豊後国志』に書かれている事でも、鵜呑みには出来ないかもしれません

田原盛直・直平の系統は分家となりますが、領地は田原家発祥の地です。
田原氏は、大友能直の子・泰広が田原別符の地頭になった事に始まります。
その「田原別符」がズバリ、沓掛城周辺を指しています。
宗家の当主となった従兄弟・田原貞広は、飯塚城を築き移りました。
飯塚城のある場所は、田原別符からかなり離れた国東半島の反対側です。
田原盛直・直貞兄弟では、兄の方が地頭としての領地が多かったです。
やはり没した時に子の田原直平が幼かった可能性も否定出来ず。
飯塚へ移るまで、叔父の田原直貞が田原直平を育てたのかもしれません。
沓掛田原家はその後、悪党化して衰退したとされますが・・・
いくらググってもそうとも、そうでないとも出てこず

唯一出て来たのが、田原直平の孫・田原親房です。
田原親房は田染荘に領地を持ち、雄度牟礼城に拠っていたようです。
しかし1501年、大友親治により成敗されたとありました。
この頃の豊後は、大友家中の激しい家督争いが収まった頃です。
家督を継いだ大友親治は、大内義興と争いました。
宗家の田原親述も大内義興側に味方し、大友家には反抗的でした。
その争いの一環で攻められたと思われます。
それ以降の沓掛田原家については、ググっても出て来ませんでした。
所在地:大分県杵築市大田沓掛 GPSログダウンロードページ
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