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沓掛城/大分県杵築市

沓掛城は、大友家の重臣・田原家発祥の地にありました。
訪問日は2021年12月31日です。

【位置・再】沓掛城

規模は小さいのですが、堀がしっかりしていてすぐ登れる!
そんな甘い言葉に誘われて訪ねました。
よく紹介される登城口は北側で、反対側の路肩が広くなっています。
東西2つの曲輪と紹介されますが、北側にも広い平坦地があります。
主郭前の堀⑤を通り過ぎると、南側に林道があって19の所に出ます。
個人的には、こっちの方が城跡にアクセスしやすいと思います。

【1】沓掛城
①-1 登城口

諸兄の紹介する登城口です。
パッと見は畑の入口に見えますが、実際そうです。

【2】沓掛城
①-2 案内の石碑

ただし、道の反対側には手作り感満載の石碑があります。
ここの路肩だけ広く、クルマを停めておけます。

【3】沓掛城
①-3 正面から見た所

①-1の入口を登ると、こんな光景が待っています。
登城路があるかのように紹介されますが、城跡方向には何も見えません。

【4】沓掛城
①-4 左へ登る道

城跡とは反対側の左側に道がありますが・・・
方向違うなぁと思いながら進むと、やっぱり遠ざかりますw

【5】沓掛城
①-5 畑のネット

かと言って、あと進めそうなのはネット沿いに右。
とりあえずこちらから進んでみました。
道は無かったので、ネット沿いから先は斜面を直登しました。

【6】沓掛城
①-6 水の枯れた沢

帰りに下って来たのはこの沢です。
道は無く、この沢に沿って進めば人間らしく登れます。

【7】沓掛城
②-7 東側の平坦地

沢を登った所には、明らかに人工的な平坦地があります。
「東西2つの曲輪で構成される」となると、ここは曲輪ではないことに。
確かに2つの曲輪のように堀も土塁も無いですが。

【8】沓掛城
②-8 主郭の横堀

東の平坦地からは、派手な土塁が見えます。
その手前が窪んでいて、真横から見るとこんな感じですラブラブ

【9】沓掛城
②-9 主郭の虎口

真正面には、土塁がぽっかり口を開けた虎口が。
城キチならずとも、吸い込まれそうな引力を感じます。

【10】沓掛城
②-10 虎口脇にある石積み

虎口の脇には、一部石積みが見られます。
しかし、左右に分かれたこの積み方、最近見たばかりです。
これ、炭焼き窯の積み方デスネ(・へ・)
もう騙されません。

【11】沓掛城
③-11 横堀

虎口からの引力も強かったですが、横堀の方がもっとw
東側の平坦地からは、土塁の外周に沿って横堀が開口しています。
横堀ですが、前の平坦地からだと少し登って堀底を進みました。

【12】沓掛城
③-12 土橋

奥で堀はカックンと曲がり、その先で仕切られています。
この仕切りが、主郭西端と二郭を結ぶ土橋です。

【13】沓掛城
④-13 二郭

二郭は細長い曲輪で、こちらも土塁で囲まれています。

【14】沓掛城
④-14 二郭先端

二郭の西端からは、斜面をまっすぐ下る道が。
これはお城ではあり得ず、神社が祀られてから出来たのでしょう。
後で歩いた林道脇に、この道の入口がありました。

【15】沓掛城
④-15 石宮

二郭の奥には、巨石を屋根代わりにした石宮があります。
絶妙なバランスを保ち続けてる岩、拝みたくなる気持ちもわかります。

【16】沓掛城
④-16 帯曲輪

二郭の土塁の外側には、横堀ではなく帯曲輪があります。

【17】沓掛城
⑤-17 横堀

城内を一周したことだし、次へ行くか・・・
その前に、主郭前の横堀を奥まで堪能しよ!
堀切も毎回端から端まで横切るので、定番の儀式です。

【18】沓掛城
⑤-18 林道

そうやって一番奥まで行くと、意外なものが見えました。
横堀の開口部のすぐ下に、林道がありました。
ここから来れれば楽なので、どこに出るか辿ってみました。

【19】沓掛城
19 林道の入口

ここが、表の道から見た林道の入口です。
かなり特徴的なので、わかりやすいです^^
多分誰も紹介していない、第二の登城口です♪


◆歴史◆

田原直平により築かれたとされます。

築城年代は不明ですが、田原直平により築かれたとされます。
田原直平は、沓掛田原氏の2代目です。
田原直平が活動したのは、1320~1350年代頃です。
鎌倉時代末期から室町時代初期です。
この頃に宝陀寺や田原家五重塔、田原白髭神社などを建てています。

【家系図】田原家初期

諸兄は「4代田原貞広のとき飯塚城へ移った」と書かれていますが・・・
田原貞広と田原直平は従兄弟で、系統が分かれています。
田原直平の父・田原盛直は、田原貞広の父・直貞の兄です。
本来ならば田原盛直の系統が嫡流では?と疑問が沸いてきます。
その辺は『豊後国志』に事情が記されていました。
田原盛直が没した時、田原直平はまだ幼子だったそうです。
そのため、田原盛直の弟・直貞が田原宗家の家督を継ぎました。
そして、田原直平の系統が沓掛城に拠る分家となりました。

田原盛直の没年がよくわかりませんが・・・
色々ググって出て来る史料の年代は
・鎮西探題・北条英時との戦功により1334年、田口村の地頭となる。
・1345年、宇佐神宮領への濫妨停止命令を受ける。
などです。
田原直平は1320年頃にお寺を建て、父親は25年後も健在・・・
『豊後国志』に書かれている事でも、鵜呑みには出来ないかもしれませんあせる

田原盛直・直平の系統は分家となりますが、領地は田原家発祥の地です。
田原氏は、大友能直の子・泰広が田原別符の地頭になった事に始まります。
その「田原別符」がズバリ、沓掛城周辺を指しています。
宗家の当主となった従兄弟・田原貞広は、飯塚城を築き移りました。
飯塚城のある場所は、田原別符からかなり離れた国東半島の反対側です。
田原盛直・直貞兄弟では、兄の方が地頭としての領地が多かったです。
やはり没した時に子の田原直平が幼かった可能性も否定出来ず。
飯塚へ移るまで、叔父の田原直貞が田原直平を育てたのかもしれません。

沓掛田原家はその後、悪党化して衰退したとされますが・・・
いくらググってもそうとも、そうでないとも出てこずあせる
唯一出て来たのが、田原直平の孫・田原親房です。
田原親房は田染荘に領地を持ち、雄度牟礼城に拠っていたようです。
しかし1501年、大友親治により成敗されたとありました。
この頃の豊後は、大友家中の激しい家督争いが収まった頃です。
家督を継いだ大友親治は、大内義興と争いました。
宗家の田原親述も大内義興側に味方し、大友家には反抗的でした。
その争いの一環で攻められたと思われます。
それ以降の沓掛田原家については、ググっても出て来ませんでした。


所在地:大分県杵築市大田沓掛 GPSログダウンロードページ

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Author:なぽ
故郷にはお城があり、小さな頃から何となくお城が好きでした。若い頃から旅が好きなので、旅行ついでに立ち寄るといった感じでした。

しかし、本格的に城をメインに旅を始めるとハマってしまい・・・。今では道無き山まで歩き回るようになりました。もう、殆どビョーキですw

全国津々浦々見てやろう!と意気込んでいましたが、訪ねる基準が年々変化しており、始めた頃に回った地方がかなり手薄になりました。でも、あまりにもマイナー過ぎる城跡まで回るのもどうかと思いつつ、通りすがりに「〇〇城跡→」なんて案内があると、ついつい足が勝手に動いてしまいます。

書き始めるとついアレコレ気になって調べまくり、遅々としてブログが進みません。こうしている間にも訪ねっ放しの城跡がザクザク溜まる一方で・・・。書き方もちょっと考え直さないと、死ぬまでに書ききれないとマジでびびっています。

おっと、またつい長くなりましたが、基本スタンスは「道案内 & 見所案内 & 歴史も!」な欲張りブログを目指しています。ここでお友達を作るつもりはありませんので、ググって出て来てちょっと気になったら読んでやって下さいませ。

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