2014/03/01
東郷槇山城/福井市
東郷槇山城は一乗谷の西を押える場所にありました。訪問日は2012年8月6日です。
▲遠景
東郷槇山城は一乗谷の西にあって、その入口を押える位置にありました。高さも高過ぎず、麓を行く軍勢を程よく牽制できそうな感じです。

(拡大)

▲案内図
城跡のある山頂までクルマでも登れる道があります。駐車場だったと思いますが、案内図がありました。多分設置してあった場所によると思うのですが・・・北を上にしてみました。文字が逆さまだったり横向きなのは、首を傾げて対応して下さいΣ(゚Д゚;

▲千畳敷
城跡で一番の広場が千畳敷です。その端には立派な土塁があります。気にしないと普通の山にある公園ですけどね・・・
これ書こうと案内図を見てたら、堀切とか土塁とか色々遺構がありそうな感じです。嗚呼、当時の私は興味を示さなかったんかな・・・
◆歴史◆
応永年間(1394~1428年の間)に東郷正景により築かれました。
東郷正景は越前朝倉氏の3代め当主・朝倉氏景の次男です。朝倉氏は1366年の貞治の変で斯波氏と戦って以来、斯波氏の重臣からは外されていました。朝倉氏は元々は斯波氏の家臣でなく、幕府から派遣されていましたからね。
サイトによっては朝倉正景が東郷荘の地頭になったのが1388年と書かれています。また、1401年に熊野権現を勧請したのが、一乗谷の初出とされます。東郷槇山城が築かれたのは、これらの動きと関係あるかもしれません。
1573年、朝倉義景が織田信長に滅ぼされました。
織田信長が浅井長政を攻めた際、朝倉軍が援軍として小谷城へ向かいました。そこで敗れて一乗谷に逃れると、その勢いのまま織田軍に追撃され、朝倉氏は滅亡しました。越前は前波吉継、次いで富田長繁が領主となりますが、一向一揆に敗れました。織田信長は10万の軍勢で一向一揆を平定すると、柴田勝家を新たに越前領主としました。この頃の東郷についてはわかりませんでした

1583年、柴田勝家が羽柴秀吉に滅ぼされました。
賤ヶ岳の戦いで勝利した羽柴秀吉は、柴田勝家が篭る北ノ庄城を一気に攻め落としました。戦後、越前は丹羽長秀に与えられましたが、この頃についてもわかりませんでした

1585年、丹羽長秀が没すると、長谷川秀一が城主となりました。
丹羽長秀は羽柴秀吉に従ってはいましたが、家臣ではありませんでした。大きな戦があるごとに同調していたので、仲は良かったのでしょうが。しかし、丹羽長秀が没すると、秀吉は丹羽氏123万石の解体を図りました。丹羽氏の家督を継いだ丹羽長重は若狭一国16万石に大減封。越前は3分割され、その内の東郷15万石が長谷川秀一に与えられました。
長谷川秀一は織田信長の直臣で、本能寺の変後は羽柴秀吉を支持していました。東郷を与えられたのは、紀州征伐で数々の戦功を挙げたからのようです。
1594年、長谷川秀一が朝鮮の戦地で病没しました。
長谷川秀一が朝鮮の戦地で病没しました。長谷川秀一には跡継ぎがありませんでしたが、父が領地を支配していたと推測されます。その後、丹羽長秀の次男・長正が城主となりました。丹羽長正については事跡があまりはっきりしません

1601年、廃城となりました。
丹羽長正が関が原の戦いで西軍に味方したため、改易となりました。その後の丹羽長正は豊臣秀頼に仕えました。しかし、1614年の大坂の陣が始まる前に大坂城を抜け、越前で暮らしたそうです。没年は1620年説と1630年説があり、はっきりしていません。越前には結城秀康が入りましたが、東郷城は廃城となりました。
所在地:福井市小路町
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