2014/02/23
敦賀城/福井県敦賀市
敦賀城は敦賀の海岸部にありました。訪問日は2012年8月5日です。
▲真願寺の門
真願寺は、金ケ崎城跡から大きな通りを西へ走り、大きな橋を渡って左折した所にあります。記憶を辿ったらそんな感じですが・・・細かい場所は地図を見て下さいね。走ってきた道は埋め立てたっぽい感じでしたが、やはりそうなんですね。これ書こうと色々見ていたら、やっぱり海に面した海城だったそうです。
この門が敦賀城の門なんだ~(´▽`*)~ただ、いつも見てるようないかつい感じがしないな~(´▽`*)~中門だから、あんまり外見には気を使わなかったんでしょうか~(´▽`*)~なんて勘違い(爆)
移築城門は南西にある来迎寺にある表門でした┐(´∀`)┌・・・今気付いた位なので、当然見てません。゜(゚TДT)゜。

▲真願寺前の水路
でも!この門の前には、それっぽい水路があります。いかにも水堀っぽいので、Google Mapで見てると、やっぱり城跡を囲む感じ。・・・ということは、真願寺もかつてはお城の内側にあったということでしょうか。または、そういう場所に建てたということでしょうね。

▲敦賀西小学校前の碑
敦賀城のよすがということでもう1箇所。真願寺と同じ区画の南東にある敦賀西小学校前に、敦賀城の説明碑があります。テカテカ黒光りする御影石に図まで付いた立派なヤツです。

▲敦賀役所図
この図のタイトルは「敦賀役所図」と書かれていました。平たく言うと、縄張図ですよね。ただ、見た感じはお城というよりも・・・陣屋ですかね・・・って陣屋って書いてあります。それにしても、目の前に書いてある「田」は田んぼですよね。右の方には「畑」もあるので。敦賀城としての痕跡は来迎寺にある移築門だけで、他は石垣すら見つかってないそうです。
◆歴史◆
1583年、蜂屋頼隆により築かれました。
蜂屋頼隆って名前は知りませんでしたが・・・ググッたら凄い!織田信長の関わった主だった戦には、ほぼ全て先鋒として戦っています。柴田勝家や丹羽長秀、佐久間信盛や羽柴秀吉らと同格の武将でした。佐久間信盛の失脚後、摂津や和泉を任されていたりします。
丹羽長秀と親しく、長秀の妹を娶り、子が無かったので4男を養子に迎えています。賤ヶ岳の戦いの後、丹羽長秀が越前の主となり、蜂屋頼隆はその南の敦賀に置かれました。はじめは敦賀の西側にある花城山城に入ったそうですが・・・平地のド真ん中に新たに城を築きました。
1589年、大谷吉継が城主となりました。
蜂屋頼隆が跡継ぎの無いまま没したため、豊臣秀吉の家臣・大谷吉継が城主となりました。蜂屋頼隆の養子は、頼隆よりも先に亡くなっていたのでした。大谷吉継は敦賀城を水城として大改修し、港には奉行所を設けるなどしたそうです。
1600年、越前は結城秀康の領国となりました。
大谷吉継は関が原の戦いで西軍として戦い、戦の中で自害しました。その戦いぶりは凄まじく、途中で裏切った小早川軍を何度も押し返したそうです。しかし、その小早川軍の監視につけていた諸将まで裏切り、包囲されて自害しました。一方、結城秀康は江戸に居て、会津の上杉軍を牽制していました。その功として、関が原の戦いで一番多い50万石以上加増され、越前の主となりました。敦賀城には代官を派遣していたそうです。
1616年、一国一城令により廃城となりました。
敦賀城は解体され、陣屋は金ケ崎城跡近くに築かれたそうです。
所在地:福井県敦賀市結城町
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