2014/02/23
高浜城/福井県高浜町
高浜城は高浜の海に突き出した小さな岬?にありました。訪問日は2012年8月5日です。
▲登城路
ここは海水浴シーズンは避けましょう。すぐ脇が海水浴場なので、バイクですら停めるのに苦労しました。あまりに停められそうな所が無かったので、グルグルと走り回りました。最終的に駐車場の人に尋ねた結果「バイクならいいよ」となり、停めさせてもらえました。クルマだとそうはいきません。
城山荘の脇に登城路があります。この道はとても整備されていて、とても歩きやすかったと記憶しています。整備され過ぎて遺構を破壊しているのかもしれませんが。元々は史跡としてでなく、展望台として公園化しようとしたものと思われます。

▲堀切?
なので、途中うねうね細道で遠回りだったのを、真っ直ぐ岬の先端まで道を造ったのかも。当時の状況など何一つ知らないので、本当の所はわかりません。ただ、もし私がここに堀切を造るとしたら、、、角度が90度違いますwww


▲本丸
途中、崩れて立入禁止の箇所などもあり、かなり回り道して本丸に辿り着きました。当時の私の目でわかったのは小さな祠と小さな説明板。説明板の後ろの櫓台が見えなかったなんて・・・。゜(゚´Д`゚)゜。


▲石垣跡
そんな私にも、石垣跡は見えましたヽ(´∀`)ノ当時の私には石垣と城址碑しか見えなかったので・・・青い時代のコトでした

◆歴史◆
1561年、武田義統・朝倉義景に攻められ、逸見昌経は居城の砕導山城を追われました。
逸見氏は若狭守護・武田氏の一門です。ルーツはどちらも甲斐です。1556年頃から武田信豊・義統父子が争うようになり、逸見昌経は武田信豊を支持しました。その後、武田義統が優勢となり、武田信豊は近江へ逃れました。武田義統は重臣・逸見昌経や粟屋勝久らの乱を抑えるため、朝倉義景に援軍を依頼しました。これが後に朝倉義景に若狭を乗っ取られる遠因となりました。
1565年、逸見昌経により高浜城が築かれました。
逸見昌経は丹後の松永長頼の援軍を得て、高浜を武田軍から奪還しました。この時に新たに高浜城が築かれました。逸見氏はもともと水軍を指揮しており、その拠点としたのです。城は2つの小さな岬に築かれ、湾を囲むようになっていました。
1566年、高浜城が武田義統に奪われました。
逸見昌経は水軍を編成して武田義統を攻めました。しかし、返り討ちに遭って高浜城を奪われました。武田義統は高浜城を新たな居城としました。
1567年、武田義統が急死し、武田元明が家督を継ぎました。
家督を継いだ武田元明がまだ4、5歳と幼かった為、大人の事情で色々揉めました。武田義統の弟・信方は元明に従わなかったため、その家臣が信方の元を離れています。この頃の朝倉義景は加賀一向一揆と和睦し、足利義秋を迎えていました。北東の情勢が安定したため、朝倉義景は西へ勢力を拡大する動きを始めました。
1568年、武田元明が朝倉軍により、一乗谷へ連れ去られました。
朝倉義景は若狭へ侵攻し、武田元明を一乗谷へ連れ去りました。若狭の統治は武田信方に委ねられました。逸見昌経は足利義昭を奉じて上洛した織田信長に謁見したそうです。粟屋勝久など反・武田信方の若狭衆は、この頃から織田信長に通じていたようです。
1570年、織田信長が越前・金ケ崎城を攻めました。
この時に織田信長は、若狭攻めを口実に出兵していました。そして、若狭・国吉城に逗留して軍勢を反転させ、敦賀に攻め込みました。この時に若狭の武田氏家臣の多くは、織田信長に従って越前に攻め込みました。しかし、北近江の浅井長政が朝倉義景への援軍を出したため、織田軍は撤退しました。この直後、体勢を立て直した織田軍は浅井長政を攻め、姉川で戦いとなりました。織田軍はここで一気に小谷城を攻めず、近江国人衆の切り崩しを図りました。
1573年、織田信長が朝倉義景、浅井長政を滅ぼしました。
朝倉義景が滅ぼされると、若狭の武田信方は姿を隠しました。一乗谷に拉致されていた武田元明は救出されましたが、小浜で蟄居の身となりました。若狭国は丹羽長秀に与えられ、武田旧臣は若狭衆として織田軍に組み込まれました。
1581年、逸見昌経が没し、溝口秀勝が城主となりました。
逸見昌経が没すると、逸見氏は改易されてしまいました。どうやら織田信長からは危険分子と見なされていたようですね。逸見昌経の所領の内、5000石は溝口秀勝、3000石が武田元明に与えられました。
1583年、山内一豊が城主となりました。
丹羽長秀が柴田勝家滅亡後の越前を与えられました。丹羽長秀の家臣だった溝口秀勝は、越前に隣接する加賀・大聖寺に移りました。山内一豊は賤ヶ岳の戦いでの活躍が認められ、初めて城が与えられました。この時の禄高は5000石でした。
1585年、木下利房が城主となりました。
山内一豊は近江・長浜城2万石へ移りました。これは羽柴秀次に近江が与えられ、その宿老とされたためです。木下利房は羽柴秀吉の甥(ねねの兄の子)に当たります。木下利房の弟には、あの小早川秀秋がいました。
1600年、京極高次の家臣・佐々義勝が城主となりました。
関が原の戦いで、木下利房は西軍についたため改易されました。弟と一緒に寝返らなかったんですね・・・
佐々義勝は武田元明の子だそうです。武田元明は本能寺の変の直後に丹羽長秀の城を落としたため、切腹させられていました。武田元明の妻・竜子は京極高次の姉か妹で、連れ子として保護されたんですね。そんな経緯があったため、武田姓は名乗らず津川や佐々木、佐々姓を名乗っていました。
1634年、高浜城は廃城となりました。
2代目・京極忠高が出雲国・松江へ移り、老中・酒井忠勝が小浜藩主となりました。この時に高浜城が廃城とされました。
所在地:福井県大飯郡高浜町事代
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