2014/02/22
小丸城/福井県越前市
小丸城跡は常安楽院の隣にあります。訪問日は2012年8月5日です。
▲城跡の前
小丸城跡は常安楽院の隣にあり、かなりの駐車スペースがありました。・・・たしかそうだった気が


▲城址碑
その中で一番立派だったのがコレ。その脇にもちっちゃいのがありますがwだんだん大きくなる中で、それまでのも残したのでしょうね。


▲石垣
城跡は本丸しか残っていないそうですが、石垣がちゃんと残っています。私みたいなニワカちゃんでも、しっかり堪能できます^-^ただ、門みたくなってる所は後世のものだとかどうだとか説があるようです。
◆歴史◆
1575年、小丸城は佐々成政により築かれました。
朝倉氏滅亡後の越前は、はじめは混乱が収まりませんでした。越前を任された朝倉旧臣・前波吉継、富田長繁が次々倒れ・・・一向一揆が支配するという事態になりました。
織田信長は大軍で一気に一向一揆を討伐し、柴田勝家を越前の領主としました。そして、柴田勝家の目付として前田利家、佐々成政、不破光治が府中に配置されました。この時に佐々成政が居城として築いたのが小丸城です。
彼らは「府中三人衆」と呼ばれましたが、柴田勝家の家臣ではありませんでした。荒木村重の謀反の時など、柴田勝家とは切り離して動因されています。
1581年、佐々成政が富山城へ移りました。
越前・加賀を手中に収めた織田信長は、ゴタゴタ続きの越中を攻めました。織田・上杉の大勢力に挟まれ、どちらに味方するのかで神保家中が分裂していたそうです。そんな中で上杉謙信に攻められ、反上杉派筆頭だった神保長住が追放されました。彼は能登に逃れましたがそこも上杉謙信に攻められ・・・京に逃れて織田信長に仕えるようになりました。
やがて神保長住にリベンジの機会が訪れ、織田軍の越中攻めの先鋒を任されました。彼はガンガン攻め立て、次々と越中の城を攻略。ついには元の居城・富山城を奪還するに至りました。
ここで佐々成政が越中平定の総大将に任命され、富山に移りました。翌年には神保長住が旧臣との争いが元で追放され、佐々成政が越中の主となりました。小丸城はここで役割を終えて、廃城になったと思われます。
所在地:福井県越前市五分市町
福井県の城跡/なぽのホームページを表示 |
コメント