2014/02/17
国吉城/福井県美浜町
国吉城は越前国との国境近くにありました。訪問日は2012年8月5日、2018年7月15日です。
※続日本100名城スタンプについて追記しました


▲佐柿代官所跡にある資料館と幟
国吉城の麓には、石垣に囲まれた売店風の建物がありました。どうやらこれが若狭国吉城歴史資料館のようです。特に何が欲しいというのも無かったので、そのままスルーしちゃいましたが・・・色々資料があるそうです。国吉城の幟がいっぱいなのですが、資料館は佐柿代官所の跡地にあります。


▲資料館前にある説明板的な物(拡大)
その駐車場というか広場には、写真の説明付きオブジェ?があります。板じゃないので「説明板」とは呼べず・・・何ていうんでしょうね?これはwこの案内図によれば、資料館の北隣で山の谷間にある段々が城主様の館跡のようです。そして、その脇を登る道が登城路です。


▲城主居館跡
登城路の脇にある城主の居館跡です。石垣や段々になった地形が残ります。石垣は何だか石が新しいようにも見えますが・・・雰囲気はとてもいいですね^-^


▲登城路にある獣よけの扉とつづら折れの道
城主様の居館脇を登って行くと、獣よけの扉があります。カギはかかっていないので自由に通れますが、開けたらちゃんと閉めましょう。そこからつづら折れの散策路的な道をガツガツ登ります。


▲発掘調査中
登城路をひいこら登って行くと、平らな所に辿り着きました。そこは何だか色々ロープが引いてあり、発掘中的な事が書かれていました。・・・1年半前の事ですけどwそこらじゅうほじくり返しては、その周囲にロープが張られています。中には掘り出されたっぽい石垣も!きっと後で埋め戻されるんですね。・・・1年半前のお話ですw


▲本丸
本丸は広く、真ん中には麓にあったのと同じような説明板的な物がありました。本丸の縁には土塁もありますヽ(´∀`)ノちゃんと案内も出ているので、私のようなニワカにもちゃんと分かりました


◆歴史◆(妄想爆発w)
1556年、若狭武田家重臣・粟屋勝久が、古城跡を大改修しました。
と、どこのサイトでも書かれていました。・・・その古城っていつ誰が築いたの?は素朴な疑問。どこのサイトにも、その辺については全く書かれていませんでした。んんん、、、みんなコピペ過ぎるぜぇぇぇ!まぁ、いくら調べても、その古城が何なのかは出てきませんでしたけどwたま~に「南北朝時代」って書いてあるのがあったので調べました。手がかりは南北朝時代に若狭で何があったのか、ということだけです。
室町時代の始め頃、足利尊氏と直義兄弟、後醍醐天皇が三つ巴の争いを演じていました。この中で、一色範氏は足利尊氏に味方して、九州探題として菊池氏ら南朝方と戦いました。しかし、九州ではさしたる成果も出せぬまま、1355年には京へ逃げ帰ってしまいました。
一色範氏とその嫡男・直氏はそのまま歴史の表舞台から消えてしまいましたが・・・次男・一色範光は将軍・足利義詮、次の将軍・足利義満に気に入られて重用されました。そして1357年、一色範光は三河国と若狭国の守護に任命されました。この経緯がサッパリわからず、ただ将軍と仲が良かっただけなのか?という感じです。
それから12年経った1369年から2年の間、若狭国が荒れました。これは領国支配を強化しようとする一色範光と、従来からの国人衆の権益争いです。大雑把な勢力図は、若狭国の西半分が守護方、東半分が国人衆方といった感じです。国吉古城?は若狭の東の端なので、国人衆方の勢力圏にありました。この戦いは守護・一色範光が勝利を収めました。国吉古城?が使われなくなり、放棄されるのは辻褄が合いますね。
・・・で、1556年頃の若狭では何があって、栗屋勝久は城を築いたのでしょうか。この頃は、当主・武田信豊とその嫡男・武田義統が争っていました。この争いもよくわからないので勝手に辻褄を合わせてみます・・・
武田信豊は隠居したがっていた、らしいです。次の家督を嫡男・義統と次男・信方のどちらが継ぐかで揉めた、、、らしいです。武田信豊は次男の信方に家督を譲りたかった、、、のかもしれません。そこで武田信豊と義統との間で争いとなり、義統方が勝利しました。しかし、ゴタゴタはこれで終わりません。
1561年、朝倉義景による若狭介入が始まりました。
この年、西の重臣・逸見昌経が乱を起こしました。逸見昌経は丹後国・一色義道の援助を得ていたため、単独で乱を鎮圧できませんでした。そこで武田義統は、東隣の越前国・朝倉義景の力を借りることにしました。しかし、これには東の重臣・栗屋勝久が猛反対しました。朝倉軍の介入により乱はひと段落しましたが、逸見氏と粟屋氏は健在でした。
1563年、国吉城はこの年から毎年のように朝倉軍に攻められました。
何度も朝倉軍に攻められましたが、すべて撃退し守り切っています。これは「粟屋勝久の国吉籠城」と呼ばれ、後に織田信長も賞賛したそうです。
1566年、粟屋勝久と逸見昌経は、武田義統の嫡男・元明を推して乱を起こしました。
武田元明は1562年生まれなので、この時はまだ3歳か4歳です。武田義統ってよっぽど家臣受けが悪かったんですね。しかしこの翌年、武田義統が急死したため、元明が家督を継ぎました。
1568年、朝倉義景が若狭に攻め込み、当主・武田元明を拉致しました。
朝倉軍が若狭に攻め込み、当主・武田元明を連れ去りました。武田元明は一乗谷で暮らすことを強要されました。以後の若狭は朝倉氏に従属し、武田義統の弟・武田信方が統治しました。
1570年、織田信長が国吉城を拠点に越前へ攻め込みました。
織田信長は若狭攻めを口実に軍を進め、国吉城に逗留しました。この時に粟屋勝久をはじめ、多くの若狭の国人衆が織田方に味方しました。織田信長はここで進路を変更し、敦賀の金ケ崎城を攻め落としました。
1573年、織田信長が朝倉義景を滅ぼしました。
この時、若狭の国人の多くは織田軍に加勢しました。特に粟屋勝久は一乗谷への一番乗りを果たし、旧主・武田元明を救出しました。武田元明は粟屋勝久の命乞いにより赦免され、小浜市の神宮寺に蟄居となりました。一方、朝倉義景より若狭統治を任されていた武田信方は姿を消しました。以後、若狭の主は丹羽長秀となりました。
1583年、木村定重が城主となりました。
羽柴秀吉が賤ヶ岳の戦いで勝利し、北ノ庄城を攻め落として柴田勝家を滅ぼしました。この時の戦功により、丹羽長秀に越前が与えられました。粟屋勝久はこの頃に没したとみられ、その旧領は木村定重が引継ぎました。木村定重は丹後街道を城寄りに付け替え、佐柿を宿場町として整備しました。
1634年、小浜藩主・酒井忠勝が佐柿奉行所を設置しました。
佐柿奉行所は国吉城の麓に築かれました。ここには政庁の他、藩主が領内を巡視する際の休憩所も設けられました。後に佐柿陣屋と改称され、幕末には水戸天狗党の残党を預かる准藩士屋敷が建てられました。
続日本100名城スタンプ設置場所
![]() | 若狭国吉城歴史資料館 開館時間 4月~11月:9時~17時、 12月~3月:10時~16時半 (入館は閉館30分前まで) 休館日 月曜日(祝日の場合その翌日)、祝日の翌日、 年末年始 入館料 大人100円、中学生以下無料 |
所在地:福井県三方郡美浜町佐柿 GPSログダウンロードページ
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