2014/02/15
金ケ崎城/福井県敦賀市
金ケ崎城は、敦賀湾を一望できる海沿いの金ケ崎山にありました。訪問日は2012年8月5日です。
▲案内図(拡大)
ここは道が分かりやすかったです。とりあえず港に向かうと「金ケ崎宮」の案内が沢山出ていたので。この神社のある山にお城もありました。案内図は本丸にあった奴ですが、最初に載せておきます。

▲説明板
城跡へは金ケ崎宮への参道から登ります。階段が真っ直ぐなので、往時の登城路ではないはずですが。この「登城路」の入口辺りだったと思いますが、写真の説明板があります。かなり詳しく書かれていて、見ごたえ十分です^-^

▲金ケ崎宮
「登城路」の途中に金ケ崎宮があります。金ケ崎宮の先にお城があった、とも言えますがw歴史を調べると、この神社はお城があった時からあったそうで・・・戦に敗れた城主様がここで自刃したりしています。

▲城址碑
更に先へ進むと、突き当りの広場に城址碑がありましたヽ(´∀`)ノ・・・と単純な私はここで登城終わり。案内図見てると、ほとんど城跡を見ずに次へ行ってます。これだからニワカは!!と、1年ちょっと前の自分に言ってます

◆歴史◆
1181年、越前守・平通盛が反平家の国人衆に敗れ、津留賀城に篭りました。
前年の以仁王の挙兵で始まった治承の乱は、全国に反平家の乱を誘発しました。越前や加賀でも国人衆が反平家の乱を起こし、木曽義仲と連携するようになりました。
越前守の平通盛はこの乱を鎮圧しようとしましたが敗れ、国府から津留賀城に退きました。この津留賀城が金ケ崎城です。
越前での苦戦で越前に平家の援軍を送ることが決まりましたが・・・その援軍を待たずに平通盛は京へ逃れたのでした。
1182年は大飢饉のため戦はありませんでした。1183年、平家は北陸奪還のため、10万の軍勢で越前・加賀を平定しました。しかし、加賀と越中の国境にある倶利伽羅峠の戦で木曽義仲軍に大敗を喫しました。木曽義仲軍はそのまま北陸から攻め上がり、ついに京を占領するに至りました。
1337年、斯波高経に攻められ落城しました。
1335年に足利尊氏が光明天皇を擁立して幕府を開きました。京を追われた後醍醐天皇は吉野で朝廷を樹立し、足利尊氏排除を開始しました。南北朝時代の始まりです。
新田義貞は恒良親王と尊良親王を奉じて北陸を進軍し、金ケ崎城に入りました。その直後に北朝方の越前守護・斯波高経は城を包囲し、兵糧攻めを開始しました。新田義貞は城を抜け出して軍勢を編成し、金ケ崎城を救援しようとしましたが失敗しました。3月3日、斯波軍が城内に攻め込み尊良親王と新田義顕が金ケ崎宮で自刃。3月6日には落城し、恒良親王が捕らえられて京で毒殺されました。
1458年、越前守護・斯波義敏の家臣・堀江利真が金ケ崎城を攻め落としました。
この頃は守護代・甲斐常治が勢力を拡大し、守護・斯波氏と対立しました。所領を巡る訴訟では、将軍・足利義政は甲斐常治に有利な裁定をしました。この裁定に憤慨した斯波義敏は一時出奔しましたが・・・甲斐常治が病に倒れたことをきっかけに、甲斐氏打倒の兵を挙げました。緒戦で堀江利真が金ケ崎城を制圧して甲斐一族を越前から追放しました。しかし、将軍・足利義政が斯波義敏討伐を命じたため、斯波義敏は山口に逃れました。この時に甲斐常治に協力したのが朝倉孝景で、甲斐常治の没後、越前を手中に収めました。
1570年、織田信長に攻め落とされました。
織田信長は北近江の浅井長政と同盟し、足利義昭を奉じて上洛を果たしました。この上洛に反発したり妨害をした事を口実に、六角氏や武田氏を攻めるようになりました。織田信長は若狭国の国吉城に入ると、進路を東に変更して金ケ崎城を攻めました。朝倉景恒はよく守ったのですが、守り切れないと判断して降伏しました。これは金ケ崎救援を命じられた朝倉景鏡が、仲の悪い景恒を見殺しにしたためとされます。城を明け渡した朝倉景恒は一族から総スカンを喰らい、程なくして失意の内に没しました。
金ケ崎で勝利した織田軍でしたが、浅井長政も金ケ崎城の援軍を進めていました。北の朝倉軍と南の浅井軍に挟まれた織田軍は、西近江を通って京へ逃れました。この時の織田軍追撃戦は「金ケ崎の退き口」と呼ばれ、木下藤吉郎が殿を務めました。
1573年、朝倉義景が織田信長に滅ぼされました。
浅井長政が離反した後、織田信長は北近江へ侵攻しました。3年掛けて徐々に国人衆を寝返らせると、小谷城へ攻め寄せました。この時に朝倉軍は浅井救援軍を送りましたが・・・山本山城を織田軍に押えられて進めず、撤退を開始しました。この機を捉えた織田軍は一気に越前まで追撃し、朝倉義景を滅ぼしました。その勢いのまま小谷城も攻め落とし、浅井長政も滅ぼしました。
越前は直前に寝返った朝倉家の元重臣・前波吉継に与えられました。しかし、専横に走った吉継は、同じく元朝倉家臣の富田長繁に討たれました。富田長繁はこの時に一向一揆の力を利用したのですが・・・民衆の支持を失った冨田長繁は、戦の最中に味方の小林吉隆に討たれました。
1575年、武藤舜秀が敦賀郡代になりました。
富田長繁が討たれた後、越前は一向一揆が支配していました。この一向一揆の南下に備え、武藤舜秀が敦賀湾の西にある花城山城に配置されました。織田信長は越前の一向一揆を平定するため、軍勢を差し向けて平定。その後も武藤舜秀は敦賀に留められ、そのまま敦賀郡代に任命されました。金ケ崎城にも誰かが城主として守っていたと思いますが・・・わかりませんでした。武藤舜秀は1579年に有岡城攻めの最中に陣没しました。この後、誰が敦賀を引き継いだのかもわかりませんでした

1583年、蜂屋頼隆が敦賀城を築きました。
柴田勝家が羽柴秀吉に滅ぼされた後、敦賀には蜂屋頼隆が入りました。蜂屋頼隆は新たに平城の敦賀城を築き、大谷吉継も敦賀城に入りました。金ケ崎城がいつまで城として使われていたのかもわかりません

所在地:福井県敦賀市金ケ崎町
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