2014/02/14
小浜城/福井県小浜市
城は北川と南川の間の河口にありました。訪問日は2011年8月5日です。

▲小浜神社鳥居と説明板
大通りから信号のある交差点を曲がると、まず最初に見えるのが鳥居です。この鳥居は小浜神社のもので、本丸の真ん中にあります。鳥居の脇には社務所らしき建物があり、その壁際に小浜城の説明板があります。

▲神社の左にある石垣
それよりもまず目が行ったのが、神社のすぐ左脇にあるこの石垣


天守台
神社の境内をずんずん進んで行くと、奥にも石垣がありました。周囲よりもひと際大きな石垣で、縄張図でも一番大きく描かれている所です。ここが天守台です。


▲本丸石垣
あとは周囲をぐるっと一周。本丸の西~北~東は石垣が続いています。石が真新しいように感じますが・・・積み直したか復元したのでしょうか。周囲の堀は埋められ、外周部分は崩されていますが、それでも迫力があります^-^

▲小浜高校にある藩校・順造館の門
近所の小浜高校には、小浜藩の藩校・順造館の正門が移築されています。お城の門ではないのですが、とても雰囲気があります。明治時代にことごとくお城の建築物が破壊されていますので、とても貴重な建築物ですね☆
◆歴史◆
1601年、京極高次により築城が開始されました。
京極高次は関が原の戦では東軍に属し、大津城に篭城しました。大津城は西軍に攻められ、数日の攻防の後に落城しました。城を守り切れなかった事を恥じた京極高次は、高野山に赴き出家しました。しかし、西軍1万5千の軍勢を大津城に足止めにしたことで、関が原では東軍が勝ちました。徳川家康はこの事をとても評価し、京極高次に若狭一国を与えました。
1634年、京極忠高が出雲・松江に移り、酒井忠勝が城主となりました。
京極高次が築城を開始し、2代目・忠高の代になっても完成しませんでした。この時に完成していたのは天守台と石垣まで。依然として後瀬山城を居城としていました。酒井忠勝も、縄張りを変更しつつも小浜城の築城を継続しました。酒井忠勝は徳川家康の再従兄弟(はとこ)で、後北条氏討伐後に3千石を与えられました。その後、トントン拍子に出世して、小浜12万3千石を領する大老にまで上り詰めました。
1641年、藩主が小浜城に移りました。
築城開始から40年経ち、ようやく城主が入りました。40年って、今住んでるボロアパートよりも築年数が多いです。まぁ、築城開始からなので、この時はまだ新築ですけどねw
1871年、火災により大半が焼失しました。
小浜県庁を建設中に、二の丸から出火しました。この火災により、天守を除く大半の建築物が焼失してしまいました。この時に、若狭国の政庁としての役割を終えました。
1874年、天守が解体されました。
1875年、本丸跡に小浜神社が創建されました。

▲縄張と現在の地形を重ねた図(拡大)
現在残っているのは本丸の石垣だけで、外縁部は大きく削られています。この工事が行われたのがいつなのかはわかりませんでした・・・
所在地:福井県小浜市城内
福井県の城跡/なぽのホームページを表示 |
コメント