2014/02/09
小倉城/滋賀県東近江市
小倉城は近江と伊勢北部を結ぶ八風街道を押える要衝にありました。訪問日は2012年8月4日です。

▲城址碑
地図で見るとポツリと集落があり、その真ん中の道の道を行く感じです。うっすら覚えているのは、その曲がる所にある野菜の倉庫が目印でした。思いのほか迷わず辿り着けたと記憶しています。
県道から集落の真ん中を真っ直ぐ進み、その突き当たりに写真の石碑群があります。石垣はどう見ても近世のものですが、雰囲気的に「あっ、ココだ!」とすぐ分かりました。ここの城址碑も形が個性的で、カッコイイですねヽ(´∀`)ノ

▲説明板
そのすぐそばには綺麗な説明板があります。真新しい感じがしたのですが、愛東町は2005年に合併して東近江市になりました。・・・ということは、その直前ぐらいに設置されたのでしょうか。ちゃんと屋根までついていて、とても大切にしている様子が伺われます。
ここの城跡も曲輪や堀切、空堀がすぐ近くにあるそうです。1年半前の私は興味がなかったようで、、、勿体無い事をしました 。゜(゚´Д`゚)ノ
◆歴史◆
小倉城は承暦年間(1077~80年の間)に、小倉景実により築かれました。
小倉景実は清和源氏の末裔で、愛知郡小椋庄に城を築き土着しました。景実の孫・小倉実郷は源頼朝に従い、愛知、神崎、蒲生の3郡を安堵されました。蒲生氏とは所領が隣接しており、婚姻関係を結んでいました。応仁の乱の際に小倉氏は蒲生氏と同調し、京極方として東軍に属しました。
1520年頃、小倉氏は庶流が派生して、小倉城は小倉東家の居城となりました。小倉宗家は南の佐久良城、小倉西家は東にある山上城を本拠としました。地図見てると小倉城と山上城の位置関係から、東西が逆っぽい気がします。なぜなのかとっても気になりましたが、答えは見つかりませんでした (((´・ω・`)
この頃になると、庶流は六角氏の被官化しており、宗家と対立するようになりました。そして1560年代に六角氏と浅井氏が争い始めると、小倉家中も分裂して争いました。
1564年、小倉氏が蒲生氏の配下となりました。
小倉氏と蒲生氏は互いに婚姻関係を結ぶ対等な関係でした。この時の小倉宗家の当主は小倉実隆で、蒲生氏から迎えた養子でした。しかし、小倉氏は宗家と庶流で戦うようになり、当主を含め多数の犠牲を出しました。弱体化した小倉氏は、討死した小倉実隆の実家である蒲生氏を頼ったのかもしれません。
1570年、小倉城が六角軍により攻め落とされました。
しかし、宗家と庶流の溝は埋まらなかったようで・・・この年に織田信長は、越前の朝倉氏を攻め、浅井軍に背後を取られて敗走しました。この時に東家の小倉実房は、織田方の兵が八風街道から尾張に抜けるのを助けました。織田信長は当時六角軍と戦っており、六角方からは見過ごせない事態でした。このため、小倉東家は六角軍の討伐を受け、小倉実房は討たれ、小倉城も落城しました。小倉実房の妻・なべと子の小倉甚五郎、小倉松寿は、尾張に落ち延びました。
その後、なべは織田信長の側室となり、子は織田信長の家臣となりました。小倉甚五郎のその後はよくわかりませんが・・・松寿は本能寺の変の際に京におり、変を聞きつけて本能寺へ向かいました。そこで明智軍と戦って討死しました。
小倉宗家は蒲生氏郷に従って命脈を保ちました。しかし、蒲生氏郷の子・秀行が改易された時に出奔し、大坂の陣で討死したそうです。
所在地:滋賀県東近江市小倉町
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