2014/02/09
島川城/滋賀県愛荘町
島川城(南城)跡は泰荘西小学校となっています。訪問日は2012年8月4日です。

▲城址碑
島川城は北城と南城の2つの郭から成り立っていました。写真は南城跡にある城址碑です。
小学校の東の角にフェンスで囲まれた一角があります。この中に可愛らしいおむすび型の城址碑が

北城跡にも城址碑があるのですが・・・1つのお城で1つだけ撮ればいい、なんて思ってたみたいです、当時の私。そちらには、竹やぶの中に土塁らしき高まりがあるそうです。
◆歴史◆
1496年、伊庭貞隆により築かれました。
当時は六角高頼と京極高清が争っていました。伊庭氏は佐々木一門で代々六角氏の重臣を務めていました。築城当時、隣国美濃の守護・土岐家中でも家督争いが始まりました。土岐元頼・石丸利光は六角高頼に、土岐政房・斎藤妙純は京極高清に支援を求めました。この争いは船田合戦と呼ばれ、土岐政房(京極高清方)が勝ちました。ここで京極方に勢いがついたのでしょうか、伊庭貞隆は新たに島川に城を築きました。
しかし、翌年には京極高清の味方であった斎藤妙純が土一揆の奇襲で討死。京極高清と家督を争っていた京極政経により、高清は美濃へ逃れました。とりあえず、島川城は使われずに済んだということですね。
1502年、六角高頼が伊庭貞隆の討伐を開始します。
六角家中では伊庭貞隆が筆頭の家臣でした。その権力は当主・六角高頼にも匹敵したそうで、恐れた高頼が伊庭氏排除を始めました。伊庭貞隆は一旦湖西へ逃れますが、管領・細川政元の助力を得て反撃に転じました。六角高頼が恐れていたのはこういう事だったのかもしれません。
細川・伊庭連合軍は観音寺城へ攻め寄せ、六角高頼は蒲生貞秀の音羽城へ逃れました。伊庭軍は音羽城を攻めましたが、六角高頼が細川政元と和睦したため、戦は終わりました。その後、伊庭貞隆は何度も六角高頼と戦いを繰り返しましたが、1520年に没落しました。伊庭氏が去った後は、矢守壱岐守や喜多川弥介が城番を務めました。
元亀年間(1570~73年の間)に島川城は廃城となりました。
その頃にあった出来事は、織田信長による南近江侵攻でした。1570年に姉川の戦いに勝利すると、横山城に木下藤吉郎を置きました。その翌年には佐和山城の磯野員昌を降伏させ、一気に南近江を手中に収めました。この時に攻め落とされた城は、殆どがそのまま廃城になっています。甲賀でゲリラ戦を展開していた六角義賢も、1573年には行方知れずとなりました。
所在地:滋賀県愛知郡愛荘町島川
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