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島川城/滋賀県愛荘町

島川城(南城)跡は泰荘西小学校となっています。訪問日は2012年8月4日です。

島川城/01小学校の一角

島川城/02城址碑
▲城址碑

島川城は北城と南城の2つの郭から成り立っていました。写真は南城跡にある城址碑です。

小学校の東の角にフェンスで囲まれた一角があります。この中に可愛らしいおむすび型の城址碑がラブラブ撮るときはフェンスの隙間にレンズを突っ込みました。

北城跡にも城址碑があるのですが・・・1つのお城で1つだけ撮ればいい、なんて思ってたみたいです、当時の私。そちらには、竹やぶの中に土塁らしき高まりがあるそうです。


◆歴史◆

1496年、伊庭貞隆により築かれました。

当時は六角高頼と京極高清が争っていました。伊庭氏は佐々木一門で代々六角氏の重臣を務めていました。築城当時、隣国美濃の守護・土岐家中でも家督争いが始まりました。土岐元頼・石丸利光は六角高頼に、土岐政房・斎藤妙純は京極高清に支援を求めました。この争いは船田合戦と呼ばれ、土岐政房(京極高清方)が勝ちました。ここで京極方に勢いがついたのでしょうか、伊庭貞隆は新たに島川に城を築きました。

しかし、翌年には京極高清の味方であった斎藤妙純が土一揆の奇襲で討死。京極高清と家督を争っていた京極政経により、高清は美濃へ逃れました。とりあえず、島川城は使われずに済んだということですね。

1502年、六角高頼が伊庭貞隆の討伐を開始します。

六角家中では伊庭貞隆が筆頭の家臣でした。その権力は当主・六角高頼にも匹敵したそうで、恐れた高頼が伊庭氏排除を始めました。伊庭貞隆は一旦湖西へ逃れますが、管領・細川政元の助力を得て反撃に転じました。六角高頼が恐れていたのはこういう事だったのかもしれません。

細川・伊庭連合軍は観音寺城へ攻め寄せ、六角高頼は蒲生貞秀の音羽城へ逃れました。伊庭軍は音羽城を攻めましたが、六角高頼が細川政元と和睦したため、戦は終わりました。その後、伊庭貞隆は何度も六角高頼と戦いを繰り返しましたが、1520年に没落しました。伊庭氏が去った後は、矢守壱岐守や喜多川弥介が城番を務めました。

元亀年間(1570~73年の間)に島川城は廃城となりました。

その頃にあった出来事は、織田信長による南近江侵攻でした。1570年に姉川の戦いに勝利すると、横山城に木下藤吉郎を置きました。その翌年には佐和山城の磯野員昌を降伏させ、一気に南近江を手中に収めました。この時に攻め落とされた城は、殆どがそのまま廃城になっています。甲賀でゲリラ戦を展開していた六角義賢も、1573年には行方知れずとなりました。


所在地:滋賀県愛知郡愛荘町島川

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Author:なぽ
故郷にはお城があり、小さな頃から何となくお城が好きでした。若い頃から旅が好きなので、旅行ついでに立ち寄るといった感じでした。

しかし、本格的に城をメインに旅を始めるとハマってしまい・・・。今では道無き山まで歩き回るようになりました。もう、殆どビョーキですw

全国津々浦々見てやろう!と意気込んでいましたが、訪ねる基準が年々変化しており、始めた頃に回った地方がかなり手薄になりました。でも、あまりにもマイナー過ぎる城跡まで回るのもどうかと思いつつ、通りすがりに「〇〇城跡→」なんて案内があると、ついつい足が勝手に動いてしまいます。

書き始めるとついアレコレ気になって調べまくり、遅々としてブログが進みません。こうしている間にも訪ねっ放しの城跡がザクザク溜まる一方で・・・。書き方もちょっと考え直さないと、死ぬまでに書ききれないとマジでびびっています。

おっと、またつい長くなりましたが、基本スタンスは「道案内 & 見所案内 & 歴史も!」な欲張りブログを目指しています。ここでお友達を作るつもりはありませんので、ググって出て来てちょっと気になったら読んでやって下さいませ。

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