2014/02/08
目賀田城/滋賀県愛荘町
目賀田城は目賀田公民館の裏にありました。訪問日は2012年8月4日です。
▲城址碑
地図にも載っている目賀田公民館には迷わず辿り着きました。何だかこの日はあまり道にも迷わず絶好調ヽ(´∀`)ノそしてその脇には立派な城址碑がありました。

▲土塁
その後ろには何やら土が盛られている・・・というので裏に回ると!これまた立派な土塁がありますヽ(´∀`)ノこれだけしっかりしたものなので、当時の私も興味をそそられたようです。・・・撮ったのはこの1枚だけでしたが


▲説明板
土塁の内側には写真の説明板があります。これには詳しい説明や明治時代の地図などが描かれえています。訪問当時は何かで突かれて割れていましたが、今はどうでしょうか?
◆歴史◆
1576年、目賀田城が目賀田貞政により築かれました。
目賀田氏は代々六角氏の重臣を務めていました。しかし、1563年に六角義弼が重臣・後藤賢豊をを殺し、国人衆が六角氏を見限りました。目賀田貞政は後藤賢豊とは親戚だったため、これを機に浅井長政に仕えるようになりました。しかし、1573年に浅井長政が織田信長に滅ぼされました。この時に目賀田貞政は織田信長に降り、所領を安堵されました。
この時の目賀田貞政は、琵琶湖畔にある目賀田山に城を構えていました。六角氏の重臣らしく、観音寺城と相対するような山城でした。織田信長は畿内を制圧すると、近江に本拠を移す計画を立てました。その移転先が目賀田山だったのです。
織田信長の命令を受け、目賀田貞政は光明寺野に移って新たに城を築きました。この時に織田信長が築いたのが安土城、目賀田貞政が築いたのが目賀田城です。光明寺野の地名は目賀田に改められました。
1582年、目賀田城は廃城となりました。
織田信長は徳川家康を安土城に招き、目賀田堅政が饗応していました。堅政は京や堺見物にも同行していましたが、この時に本能寺の変が起きました。徳川家康は伊賀越えで三河へ逃れる際、堅政をヘッドハンティングしようとしました。しかし、堅政は近江に残る道を選び、明智光秀に従って戦いました。そして山崎の戦いで羽柴秀吉に破れ、所領を没収されて一族は離散しました。
その後の目賀田氏は・・・
目賀田堅政の子・守成は水野忠重の孫娘を娶っていました。そのため水野氏の庇護を受けていました。さらに子孫は紀州徳川家に仕え、徳川吉宗が将軍となると江戸に移ったそうです。
所在地:滋賀県愛知郡愛荘町目加田
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