2014/02/08
高野瀬城/滋賀県豊郷町
高野瀬城跡には大きな工場があります。訪問日は2012年8月4日です。

▲城址碑
地図見てとても目立つので迷わず到着ヽ(´∀`)ノ工場の敷地にちょっとだけ食い込む感じで城址碑があります。その手前には細い水路がありますが・・・城キチは道も含めて水堀の跡では?と勝手に想像を膨らませるのでありました。
◆歴史◆(かなり推測混じり)
1180年、たぶん高野瀬城が築かれました。
高野瀬城を居城とした高野瀬氏は、出自がよくわかりません。なので、かなり推測が混ざっていると思います。
高野瀬氏は佐々木氏の庶流と、藤原秀郷を祖とする2つの流れがあるようです。登場人物の年代からはじめは藤姓、後に佐々木氏庶流が当地を治めたと思われます。
高野瀬氏の始まりは、源頼朝に従った愛智家広のようです。源頼朝の側近・佐々木秀義が旧領の近江に復帰すると、その家臣が愛知郡に配置されました。愛智四郎家長の嫡男・家広に高野瀬の地が与えられ、後に高野瀬氏となったようです。
1333年、元弘の乱で高野瀬氏が活躍しました。
鎌倉時代の終わり頃、播磨の赤松氏と佐々木道誉が六波羅探題を攻めました。これにより北条仲時は京を脱出し、鎌倉に向かって逃走しました。しかし、近江出国を目前に佐々木道誉の軍勢に捕らえられ、蓮華寺で自刃しました。この時に北条仲時を捕らえたのが、高野瀬頼隆とされています。高野瀬頼隆は、この時はじめて高野瀬姓を名乗ったそうです。
佐々木道誉は京極道誉とも呼ばれるように、六角氏の庶流・京極氏でした。この当時はまだ六角氏と京極氏は区別されていないようで、佐々木姓で呼ばれます。両家とも跡継ぎが途絶えると、お互いに養子を出し合っていたりします。
1467年、応仁の乱が始まりました。
この頃の近江では、六角家中で家督を巡る争いがありました。丁度そんなタイミングで日本を真っ二つにする応仁の乱が始まりました。六角行高と六角政堯は家督を巡り、東西に分かれて激しく争いました。この時、六角政堯に肩入れしたのが京極持清です。しかし、その六角政堯が没すると、六角氏vs京極氏の直接対決となりました。以後、戦国時代まで南近江の六角氏と北近江の京極氏が争い続けることとなります。
1503年、高野瀬隆重が肥田城を築きました。
肥田城は宇曽川と愛知川に囲まれた天然の要害でした。高野瀬城からは西へ1km程の所です。高野瀬氏は肥田城をメインの居城としていたようです。肥田城築城後も高野瀬城が使われていたのかは定かではありません。
1559年、高野瀬秀隆が六角方から浅井方に寝返りました。
浅井久政は六角定頼に屈して臣従していました。しかし、その嫡男・浅井賢政(後の長政)は、元服すると六角義賢に露骨に反抗しました。浅井賢政はまず、勢力境の国人達を調略し、高野瀬秀隆は浅井方に寝返りました。六角義賢も浅井方の国人達を調略し、久徳実時などが六角方に寝返りました。大勢力の狭間では、どちらに分があるか見極めて右往左往するのが常ですね。
翌年になり、六角義賢は肥田城の高野瀬秀隆を攻めました。肥田城は川に挟まれて攻めづらい地形でしたが、六角軍はそれを逆手に取りました。何と城を囲むように堤防を築き、宇曽川と愛知川の水をその内側に流したのです。肥田城は水浸しになり、大ダメージを受けたのですが・・・折からの大雨により堤防が決壊し、この水攻めは失敗しました。
浅井賢政は肥田城からの救援要請を受けて出陣しました。このため六角軍は、肥田城の南「野良田」に陣を構えました。浅井軍と六角軍の戦いは激しく、序盤は数に勝る六角軍が優勢でした。しかし、浅井軍が六角軍の本陣に集中攻撃を加えたため六角軍が崩壊。浅井軍の大勝となりました。
1573年、浅井長政が織田信長に攻め滅ぼされました。
高野瀬秀隆は織田方についていたようで・・・横山城の木下藤吉郎が盛んに調略していたので、その時に寝返ったのでしょう。佐和山城主・磯野員昌が織田方に寝返ったので、その影響があったかもしれません。
1574年、高野瀬氏が滅びました。
織田信長に従って浅井長政を滅ぼしましたが・・・翌年、越前の一向一揆と戦うため、柴田勝家に従って戦いに赴きました。この戦いで高野瀬秀隆と嫡男・隆景がそろって討死しました。このため高野瀬氏が断絶。高野瀬氏の所領は、蜂屋頼隆が引き継ぎました。
所在地:滋賀県犬上郡豊郷町高野瀬
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