2022/01/20
立石城/大分県杵築市
立石城は、天満宮背後の城山山頂にありました。訪問日は2021年12月31日です。

城は天満宮背後の城山にありました。
神社にクルマ停められるかな?と思いましたが・・・
神社の入口は鎖で閉ざされています。
1台なら停められそうですが、県道脇の方が無難だと思います。

①天満宮
城山の麓にある天満宮です。
これだけ大きいと大抵「○○天満宮」と呼ばれそうですが・・・
そういった固有の名前は無さそうな感じです。

①登城口
城山へ登る道はありませんが、登りやすいルートはあります。
この建物の右脇から山に入れるようになっています。
道っぽい踏み跡はありますが、いきなり崩れています。
最初だけは藪っぽい所を直登するよう目印が付いています。

②物見っぽい所
最初だけは藪かきっぽいですが、すぐに下草は無くなります。
そこから先は道無き尾根の直登で、やがて出っ張りっぽい所に出ます。
岩の配置も象徴っぽく感じられ、城の物見的な雰囲気があります。

③帯曲輪
更に登ると、斜面が何となく階段状になります。
狭過ぎて最初は気付きませんでしたが、帯曲輪を何本も横切ります。

③城山山頂
そのまま一番高い所に登ると、オレンジのプレートが。
ここが山頂です。
立石城は南北に並ぶ2つの峰に曲輪があります。
どちらが主郭なのか?だそうで・・・
馬ヶ岳城と同じですね


③城山山頂周辺
下から見てる内は気付きませんが、上からだと良く見えます。
周りは数えきれない程の細い帯曲輪に囲まれています。

④南の峰
城山山頂の南側にある峰の頂上です。
こちらにも例のオレンジプレートがあります。
文字は消えてしまってますが、こちらも「立石城跡」です。
どっちが主郭かわからないということで、両方にありますw

④南の峰
ただ、どちらかというとこっちの方が城跡らしさがあります。
帯曲輪は幅も本数も城山より規模が大きいです。
少しだけ標高が低いので、こっちがメインにしにくいのでしょうか?

⑤畝状竪堀群
事前に畝状竪堀群があるとは知っていましたが・・・
どの辺にあるのか知ってても、なかなか見えず。
竪堀って、目が慣れないと気付きにくいんですよね

結構な本数の帯曲輪を横切って下りた所に、何となく見えました。
◆歴史◆
築城時期や城主等、不明です
史料に殆ど登場しないため、詳細はわかりません。
『町誌』によると、天満宮を山志手城主・波多野善介が再興しています。
この「山志手城」が城山を指すのかもしれません。
『豊後国志』では、波多野善介は大友家臣と記されています。
「立石営」の項で波多野善介が「寨」にした、という書かれ方です。
前後の記述から、立石陣屋のあった場所と思われます。
(前)平安時代に豊後介・山口稲床が館を築いた
(後)江戸時代に木下氏が代々世襲した
「立石営」は、城山の事ではなさそうです

大友家直轄地だったと推測されます
以下の史料から山香郷立石は大友家直轄地だったと推測されます。
1383年の『親世所領注進状』
1528年の『大友義鑑知行預ケ状』
ただ、後者の給人はほぼ山香一揆の構成者達です。
彼らは大友家同紋衆の田北氏に従っていました。
某大聖典では、田北氏家臣・立石但馬守が城主かも?とあります。
山香郷立石の給人として記されてはいますが、2番目です。
なぜ1番目の林掃部介ではないのか、謎は深まるばかりです。
1435年、大友家と大内家の戦の舞台となったようです
これは1435年の『飯尾貞連・飯尾為種連署奉書』によります。
内容は、大内持世が立石城での家臣の忠節を賞したというものです。
この年、将軍・足利義教により、大友持直討伐令が出されました。
大内持世は九州に攻め込み、姫岳の戦で大友持直に勝利しています。
以後、大友持直は消息不明となります。
所在地:大分県杵築市山香町立石 GPSログダウンロードページ
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