2014/02/01
三田村城/滋賀県長浜市
三田村城跡には伝正寺があります。訪問日は2012年8月5日の早朝です。

▲伝正寺を囲む土塁
なぜか早朝から道に迷いましたが・・・集落の真ん中にある伝正寺が城跡です。辿りつくとビックリ!!お寺の周りをしっかりした土塁が囲んでいます!!お寺だからこそ破壊されずに残った、ということでしょうか^-^


▲説明板
そんな境内をぐるぐる回っていると、姉川の合戦についての説明板がありました。そこに描かれている武将は三田村左衛門・・・思いっきりご当地ですw気合入っててイイ感じですヽ(´∀`)ノこんな綺麗な説明板があると、城跡巡りも楽しさ倍増ですね

◆歴史◆
三田村氏の出自はわかりませんが、浅井氏とともに京極氏の根本被官12氏に含まれています。応仁の乱までは京極持清が強大な力を発揮して、本家・六角氏を翻弄していました。京極持清は一時、近江守護にも任命されましたが・・・
1471年、その京極持清が没しました。偉大な当主を失うと、その次が大変な事になります。京極家中で家督争いが始まりました。ちょっと前の六角氏と同じ状況です。そんなゴタゴタが数十年続き・・・
1524年、たまりかねた国人衆が、ついに京極氏を追放しました。その後もゴタゴタがありましたが、最終的には浅井亮政が盟主となりました。三田村氏も浅井氏とは同格だったので家中で揉めたようですが、浅井氏に従いました。
1525年、六角高頼が北近江に侵攻した時にも三田村家中は分裂しました。六角軍に三田村帯刀左衛門が味方したのです。この時の戦いは浅井亮政が六角軍を退け、帯刀左衛門の領地は三田村忠政が継ぎました。
1570年、姉川の戦いで三田村左衛門が討死し、廃城となりました。
この戦いでは三田村左衛門と三田村国定の名が登場します。いろんな記事を読んでると、三田村左衛門と三田村国定が混同されていますが・・・
三田村左衛門が登場するのは、遠藤直経の最期のエピソードです。織田軍との戦いで、三田村左衛門が敵に討たれました。浅井方の敗戦を悟った遠藤直経は、討死した三田村左衛門の首を掻き切りました。さらに自分の顔に血を塗り、髪をぐちゃぐちゃに掻き乱しました。
そして「浅井の大将、三田村左衛門の首を討ち取った」と叫び、織田軍の陣に向かいました。遠藤直経はすんなり信長の陣に入り込んだのですが、あと一歩の所でバレました。竹中半兵衛の弟か子が遠藤直経の顔を知っていたためでした。直経は捕らえられ、処刑されてしまいました。
三田村国定は、小谷城の南に約6、7kmの所にある横山城を守っていました。この城は六角氏と浅井氏の激戦地で、南北に睨みを利かせる重要な拠点でした。織田・徳川連合軍は、姉川の戦いに勝利した後、重要拠点の横山城を攻略しました。横山城は孤立無援状態のため、三田村国定は降伏して小谷城へ退きました。
1573年、小谷城が織田信長に攻め落とされました。この戦いの中で三田村国定は降伏しましたが、戦後処刑されてしまいました。三田村一族は全国に散ったため、現地には三田村姓の子孫はいないそうです。
所在地:滋賀県長浜市三田町
滋賀県の城跡/なぽのホームページを表示 |
コメント