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鯰江城/滋賀県東近江市

鯰江城は近江から北伊勢に抜ける八風街道沿いにありました。訪問日は2012年8月4日です。

鯰江城/01城址碑周辺

鯰江城/02城址碑など
▲城址碑など

ここは随分と迷いましたあせる城域らしき所をグルグル回りながら、あれ?あれ?どこだろう?という感じです。そして諦めて次の城跡へ向かい掛けた時、道端に何やら石碑や説明板が。ここは城キチの嗅覚が"ピンッ"と来ました。

道端にバイクを停めて近づくと、「鯰江城址」の城址碑がヽ(´ー`)ノやっと見つけただけに、嬉しさも倍増です。ただ、心残りと言えば、土塁や石垣の石を見つけられなかった事。せっかく丁寧な案内図を見つけたのだから、せめて土塁は見てくればよかったのですが・・・

写真の城址碑セットは、地図の印の所にあります^-^そして、城域はここから北東の住宅街一帯です。田んぼの中の集落なので、おそらくここが丸ごとお城だったようです。何も無いと書かれたブログもある位で、遺構がわかりませんでしたT_T


◆歴史◆

築城年は不明です。鯰江城は六角満綱の子・鯰江高久を祖とする鯰江氏の居城でした。

六角満綱といえば、1441年に国人衆に担がれた次男・時綱により討たれた人物です。六角時綱はこの事件のせいで幕府から討伐され、以後、家督争いが始まりました。鯰江城が築かれたのはそんな時代でした。

1568年、織田信長が足利義昭を奉じて上洛しました。この時六角義賢は三好三人衆に味方をして、この上洛を阻もうとしました。そのため織田信長と戦になり、観音寺城を追われました。その後、六角義賢は甲賀の三雲城に潜伏し、ゲリラ戦を展開しました。

1573年、織田軍に攻められ落城し、そのまま廃城となりました。

この時まで六角義賢は三雲城にいたそうですが、急遽鯰江城に移りました。これは、織田軍が小谷城を攻めている内に、背後から攻めかかろうとしたのかも。しかし、六角義賢は浅井長政とは連携しようとしなかったんですね。

浅井長政は、浅井氏が六角氏に臣従の証に人質として預けていました。これは、浅井久政が家督を継ぐ際にとった苦渋の策です。1560年に長政が元服した時、六角義賢は一文字与え「浅井賢政」と名づけました。また、重臣・平井定武の娘を娶らせています。

ところが小谷城に戻った「浅井賢政」は、名と娘を六角義賢に突き返しました。激怒した六角義賢が討伐軍を差し向けましたが、逆に大敗を喫しました。こんな事があって、六角義賢は浅井長政と連携して戦わなかったのでしょう。小谷城を攻め落とした勢いで鯰江城も攻め落とされ、以後の六角義賢は消息不明となります。


所在地:滋賀県東近江市鯰江町

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Author:なぽ
故郷にはお城があり、小さな頃から何となくお城が好きでした。若い頃から旅が好きなので、旅行ついでに立ち寄るといった感じでした。

しかし、本格的に城をメインに旅を始めるとハマってしまい・・・。今では道無き山まで歩き回るようになりました。もう、殆どビョーキですw

全国津々浦々見てやろう!と意気込んでいましたが、訪ねる基準が年々変化しており、始めた頃に回った地方がかなり手薄になりました。でも、あまりにもマイナー過ぎる城跡まで回るのもどうかと思いつつ、通りすがりに「〇〇城跡→」なんて案内があると、ついつい足が勝手に動いてしまいます。

書き始めるとついアレコレ気になって調べまくり、遅々としてブログが進みません。こうしている間にも訪ねっ放しの城跡がザクザク溜まる一方で・・・。書き方もちょっと考え直さないと、死ぬまでに書ききれないとマジでびびっています。

おっと、またつい長くなりましたが、基本スタンスは「道案内 & 見所案内 & 歴史も!」な欲張りブログを目指しています。ここでお友達を作るつもりはありませんので、ググって出て来てちょっと気になったら読んでやって下さいませ。

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