2014/02/01
鯰江城/滋賀県東近江市
鯰江城は近江から北伊勢に抜ける八風街道沿いにありました。訪問日は2012年8月4日です。

▲城址碑など
ここは随分と迷いました

道端にバイクを停めて近づくと、「鯰江城址」の城址碑がヽ(´ー`)ノやっと見つけただけに、嬉しさも倍増です。ただ、心残りと言えば、土塁や石垣の石を見つけられなかった事。せっかく丁寧な案内図を見つけたのだから、せめて土塁は見てくればよかったのですが・・・
写真の城址碑セットは、地図の印の所にあります^-^そして、城域はここから北東の住宅街一帯です。田んぼの中の集落なので、おそらくここが丸ごとお城だったようです。何も無いと書かれたブログもある位で、遺構がわかりませんでしたT_T
◆歴史◆
築城年は不明です。鯰江城は六角満綱の子・鯰江高久を祖とする鯰江氏の居城でした。
六角満綱といえば、1441年に国人衆に担がれた次男・時綱により討たれた人物です。六角時綱はこの事件のせいで幕府から討伐され、以後、家督争いが始まりました。鯰江城が築かれたのはそんな時代でした。
1568年、織田信長が足利義昭を奉じて上洛しました。この時六角義賢は三好三人衆に味方をして、この上洛を阻もうとしました。そのため織田信長と戦になり、観音寺城を追われました。その後、六角義賢は甲賀の三雲城に潜伏し、ゲリラ戦を展開しました。
1573年、織田軍に攻められ落城し、そのまま廃城となりました。
この時まで六角義賢は三雲城にいたそうですが、急遽鯰江城に移りました。これは、織田軍が小谷城を攻めている内に、背後から攻めかかろうとしたのかも。しかし、六角義賢は浅井長政とは連携しようとしなかったんですね。
浅井長政は、浅井氏が六角氏に臣従の証に人質として預けていました。これは、浅井久政が家督を継ぐ際にとった苦渋の策です。1560年に長政が元服した時、六角義賢は一文字与え「浅井賢政」と名づけました。また、重臣・平井定武の娘を娶らせています。
ところが小谷城に戻った「浅井賢政」は、名と娘を六角義賢に突き返しました。激怒した六角義賢が討伐軍を差し向けましたが、逆に大敗を喫しました。こんな事があって、六角義賢は浅井長政と連携して戦わなかったのでしょう。小谷城を攻め落とした勢いで鯰江城も攻め落とされ、以後の六角義賢は消息不明となります。
所在地:滋賀県東近江市鯰江町
滋賀県の城跡/なぽのホームページを表示 |
コメント