2014/01/21
膳所城/滋賀県大津市
膳所(ぜぜ)城は瀬田の唐橋近くの琵琶湖沿岸にありました。訪問日は2012年8月4日です。
▲水堀

▲模擬城門
膳所城は琵琶湖大橋の西詰の南側にありました。城跡の目の前には湖岸道路があり、道端に左の写真の水堀があります。そして、交差点の所には模擬城門があります。これだけ凝った物作るなら、移築されている大手門を「復元」した方がよかったかも。・・・と思える位に見事な出来栄えですよねw駐車場は道の反対側にあります。


▲石垣
城跡はパッと見は綺麗に整地された公園になっています。公園内には曲輪を分ける堀跡などは見当たらないのですが、そこかしこに石垣があります。ただ、石垣といっても「石垣跡」と言った方が良いような感じです。組んであるのもかなり低いので、後世になってイメージ的に組んだものでしょうか。

▲膳所神社に移築された門(表門)

▲膳所神社に移築された門(南門)
膳所城の城門はかなり沢山残っています。見てきたのはほんの一部ですが・・・城門10棟、櫓2棟が現存しているそうです。近年まで残っていた番所は、2006年に解体されたそうです。一番沢山あるのが膳所神社で、表門、北門、南門は膳所城から移築されたものです。・・・北門見忘れてる(´・ω・`)

▲篠津神社に移築された北大手門
さらに、篠津神社にも行って来ました。住宅街の中にあってとても場所がわかりづらかったですが。奥の社殿が城を模したものだと雰囲気出るのになんて、ついつい妄想爆発ですw
◆歴史◆
1601年、徳川家康の号令のもと、初の天下普請の城として築かれました。
前年にあった関が原の戦いで、大津城は西軍の攻撃を受け落城しました。大津城も琵琶湖岸に築かれた水城でしたが、長等山から大砲による攻撃が致命的でした。新たに城を築くに当たっては、数箇所の候補地から慎重に選ばれたようです。
初代城主には戸田一西が任じられました。戸田一西は徳川家康が吉田(豊橋)を攻めた時から従う譜代の家臣でした。関が原の戦いでは徳川秀忠に従って中山道を進みました。途中、真田昌幸の上田城攻めでは、軍中でただ一人、上田城攻めに反対したそうです。膳所城3万石は、徳川家康がその事を賞したためと言われています。
戸田一西は1604年に没し、子の氏鉄は1617年まで膳所城主を務めました。その後、短期間で城主が入れ替わる時期が続きましたが・・・1651年、本多俊次が城主となり、以後明治に至るまで本多氏が13代続きました。
1870年、廃城の太政官布告が出され廃城となりました。
この廃城は、膳所藩から願い出たものだそうです。それは・・・琵琶湖に突き出した膳所城は傷みが激しく、維持費がとてもかかったそうです。また、水城は当時の戦闘には不向きだったそうで、無用の長物と化していました。廃城になったことにより建築物を売りさばき、城は1200両の大金に化けたそうです。移築門がやたら多いのは、そのせいなのでしょうか?
所在地:滋賀県大津市本丸町
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