2014/01/20
大津城/滋賀県大津市
大津城跡は現在市街地化し、あまり遺構は残っていません。訪問日は2012年8月4日です。
▲浜大津駅の北側にある城址碑
浜大津駅の北側に歩道橋があり、その足元に城址碑があります。大きな道沿いなので、簡単に見つけることができます。なんにも無い城跡でも、これがあると「キタ━━(゚∀゚)━━ヨ」って思えますね^-^

▲想定復元図 拡大表示
城址碑の所にある想定復元図では、かつての城域と現在の地図が重ねられています。これを見ると・・・完全に市街地に呑み込まれてますね。堀の形などまったく関係無く道とか建物が並んでいますし。

▲外堀の石垣
そんな中、ちらっと石垣が見える場所があります。駅前の商店街の中ですが、大津祭曳山展示館の脇です。建物の脇が1軒分空き地になっていて、そこから見えます。ただ、ここにクルマが停まっていたり、次の建物が建つと見えなくなりますねT_T
◆歴史◆
1586年、豊臣秀吉が浅野長政に命じて築かれました。
坂本城は織田信長が比叡山延暦寺を監視するために築いた城でした。しかし、焼き討ちから15年の年月が経ち、延暦寺が反抗する気配が薄れたのでしょうか。または、謀反を起こした明智光秀の居城だったのが嫌だったのでしょうか。
豊臣秀吉は、琵琶湖の水運と東海道の監視を目的として、新たに大津城を築きました。城主は坂本城主の浅野長政で、建築資材は坂本城のものを用いました。大津城には立派な天守が築かれ、望楼型の4重5階だったと考えられています。この天守はその後、彦根城へ移築されたと考えられています。
1595年、京極高次が城主となりました。
京極家は近江国守護も務めた名家でした。しかし、浅井久政の頃に下克上に遭って没落し、浅井家の庇護下にありました。京極高次が生まれたのは、浅井家の本拠地・小谷城の京極丸でした。
京極高次は浅井長政が滅ぼされた後、坂本城の明智光秀に従っていたようです。その明智光秀が本能寺の変で羽柴秀吉と戦った際には、秀吉の長浜城を攻めました。しかし、明智軍が敗れると姿を隠し、柴田勝家に匿われていました。
その後、高次の妹・竜子が秀吉の側室となると、高次は許されて領地を与えられました。その領地は年々倍々ゲームのように増え続け、大津城主となった時には6万石の大名でした。これは、近江国を平穏に治めるため、秀吉が京極家の名声を利用したものと考えられます。
1600年、関ヶ原の戦いで大津城は落城し、廃城となりました。
徳川 vs 豊臣の構図となった関が原の戦いでは、京極高次はとても難しい立場にありました。妻の初は浅井長政の娘です。・・・ということは、初の姉は豊臣秀吉の側室・淀殿でした。そして、初の妹は徳川秀忠の正妻・江でした。結局の所、高次は東軍に味方したため、大津城は西軍に攻められることとなりました。
大津城を攻めたのは毛利元康と立花宗茂の軍15,000人でした。大津城はもともとは琵琶湖の水運監視を目的とした城だったので、篭城戦には不向きでした。それでも西軍の攻撃に耐えていましたが・・・すぐ西の三井寺のある長等山から大砲を撃ち込まれると、高次は降伏・開城しました。城を落とされたことを恥じた高次は、剃髪して高野山に入りました。
しかし、大津城で15,000の西軍を足止めしたことで、関が原での本戦は東軍が勝ちました。徳川家康は京極高次の功を認め、高野山から召し出して若狭国一国を高次に与えました。
ただ、思わぬ形で弱点を露呈した大津城は、軍事拠点としての役割を終えました。本丸跡には代官所が残されたものの、瀬田橋近くの膳所に新たな城が築かれました。
所在地:滋賀県大津市浜大津
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