2014/01/19
坂本城/滋賀県大津市
坂本城跡は琵琶湖西岸の延暦寺の麓にありました。訪問日は2012年8月4日です。
▲国道沿いにある城址碑
坂本城跡は市街地化されており、明確な遺構は残っていません。なので、主に城址碑や移築された門などを追いかけることとなります。まず最初に訪れたのは、国道沿いにある公園です。ここには城址碑や明智光秀像、石垣?などがあります。

▲明智光秀像
明智光秀像はイメージ壊したらゴメンなさいm(_ _)m ・・・となぜか私が謝りますwパッと見、これを見せて「だ~れだ?」って100人に訊いてみたいです。1位を当てた人は、自分でご褒美買ってください( ゚Д゚)ノ

▲石垣跡?
琵琶湖の方に歩いて行くと、なんだか石がゴロゴロあります。何となく石垣っぽくも見えますが、大津城を造る時に持ってかれちゃったんですよね?ってことは、なんでしょう?復元でしょうか。

▲城址碑と説明板
坂本城はかなり範囲が広かったらしく、市街地の中にも城址碑があります。こちらはこぢんまりとしていますが、城址碑と説明板があります。スペースに余裕ありそうなので、イケメン光秀像を建てたら湖岸の公園に対抗できますねw

▲西教寺総門は坂本城の移築門といわれています
さらに、ちょっと北西に離れた西教寺には、坂本城のものと伝わる門があります。この門は明智光秀により移築されたそうです。門の前には明智光秀の菩提寺と彫られた石柱もあります。光秀は西教寺の再興に尽力したそうで、その時に門を贈ったのでしょうか。城が焼け落ちる前に移築されているので、とても貴重な遺構ですね

◆歴史◆
1571年、織田信長が明智光秀に命じて築かせました。
比叡山を焼討ちした後、織田信長は明智光秀に近江国滋賀郡の支配を命じました。これは比叡山の他、京の監視を目的としていました。明智光秀はその後、諸城を攻め落として南近江を制圧しました。さらに丹波国にも支配を拡大し、1580年には亀山城も手中に収めました。
1582年、本能寺の変の後、丹羽長秀により再建されました。
明智光秀は毛利軍と戦っている羽柴秀吉の援軍を命じられました。ところが、明智光秀は本能寺の織田信長を急襲し、更に二条城の織田信忠を自刃させました。この知らせを受けた羽柴秀吉は急ぎ戻り、山崎の戦いで明智軍を撃破。敗れた明智光秀は、坂本城へ戻る途中で土民に襲われて落命しました。安土城に居た甥の明智秀満は坂本城に戻り抵抗しましたが、自ら城に火をかけ落城しました。
戦後、羽柴秀吉は丹羽長秀に城の再建を命じて坂本城主にしました。越前の柴田勝家との賤ヶ岳の戦いでは重要な拠点となりました。この戦いの功により、浅野長政が坂本2万石の城主となりました。
1586年、大津城が築かれて廃城となりました。
豊臣秀吉は浅野長政に命じて大津城を築かせました。その際、坂本城の建物や資材を転用しています。坂本城は比叡山延暦寺の監視が主な役割でしたが、その必要性が低下していました。それよりも東海道や淀川の水運監視の方が重要になったためと考えられています。
所在地:滋賀県大津市下阪本3丁目
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