2014/01/18
古処山城/福岡県朝倉市(辿り着けず)
古処山城は、その名の通り古処山にありました。訪問日は2013年12月31日です。
※城跡に辿り着いた方のブログは古処山城(再)です

▲国道322号にある古処林道の入口
古処山の登山ルートはいくつかあります。
やはりその中で一番楽なルートで登りたい!というのが人情だと思います。
少なくとも山キチ以外は・・・
メジャーなルートは「八丁越」と「九州自然歩道」の2つがあるようです。
「八丁越ルート」は八丁峠付近から尾根を伝って行く感じ。
「九州自然歩道」は古処林道終点から最短距離を登る感じです。
八丁越から登りたい!と思ってはいましたが・・・
田川側から峠を越えて来ましたが、登山口を見つけられずに↑まで来ちゃいました。
・・・ま、いっかw
ということで、もう1つのルート古処林道→九州自然歩道から登りました。
山キチさん達のブログでは、ここから登る方が圧倒的に多いです。

▲古処林道終点

▲登山口
古処林道の終点は5合目とか6合目と言われています。
登る途中で確か6合目ってあったと記憶しているので、多分5合目なんだと思います。
この林道の終点はかなり広いスペースで、クルマ10台位なら余裕で停められるそうです。
やっぱりメジャーな山の登山口はちがいますね!
登山口には結構立派な案内図があります。
山キチさん達はここでこの図をピピッと頭にインプットするんですね。
・・・そんなことせずにしっかり地図をお持ちでしょうけどw
ここから見上げる階段は、非山キチをビビらせるには十分な角度です。


▲案内図
登山口にある案内図はかなり広い範囲が描かれています。
なので、古処山がとても近く見えますが・・・錯覚ですw
ところが、山キチさん達のブログを拝見していると、彼らはこの位なら1日で歩きます。
・・・私には真似できません



▲登山道(登り始め)
登山道を登り始めると、早速坂のキツサにやられます。
大抵の山では、登山道は傾斜を緩くするため九十九折れになっています。
ところが、古処山では頂上に向かって道がまっすぐなのです。
それでもまだ下の方は雪が無かったのですが・・・
ちょっと登ると道に雪がたまってる箇所が出てくるようになります。
道・・・雪・・・どうでもいいですけどw

▲水舟

▲水舟からちょっと先の分岐
そんな急でたまに雪が積もってたりする道を、息を切らせながら登りました。
山キチさん達はこんな苦行みたいな事を、好き好んでやるんですね。
他人の嗜好なんで、それをとやかく言うつもりはありませんがw
ひぃこら言いながらやっと辿り着いた水舟は、ちょうど中間地点になります。
気持ち的には「エェェ~、まだ半分・・・」と先の長さにヤラレたりしました。
後から思うと、ここから先は思った程時間はかからなかったような気がしますが・・・
登山口から水舟までは33分かかりました。


▲登山道(高い所)
水舟を過ぎると、道がちょっとづつ上がっては戻る九十九折れっぽくなりました。
沢を一気に登る感じではなくなったので、体力的にはだいぶ楽になりました。
さて、登り始めてからも雪はありましたしたが、道にはビッシリ雪が積もっています。
私、見た目も実際もふつ~に平地を歩く普段着。
靴はバイク用で滑り止めなど無く、山キチさん愛用の杖みたいのもありません。
しかも、だんだん岩肌が露出してきて、うっかりコケようものならタダでは済まなさそう・・・
ということで、急な斜面をかな~り慎重に登りました。
こういう山道って普通、下りる時の方が大変ですよね。
まぁ、私は走り出したら一直線の鉄砲玉ですからwww
下りる時の事なんて、これっぽっちも考えていませんでした。


▲平らな所から更に上へ
岩肌の間を慎重に登っていると「古処山10分」の案内が。
山頂に近づくにつれてこの手の案内が増えるのは、心理的にすごく楽になります。
先が見えてくるとファイトー!いっぱぁーつ!
って心の中で叫びますもんね!
私だけですか?そうですか・・・
かなり登ってきたのに足取りも軽く、やがて平らな場所に辿り着きました。
お、頂上!と一瞬喜びかけました。
そこにあった説明板は「古処山のツゲ林」というマイナーな感じのものでした。
そして城っぽい遺構はないかとキョロキョロしていたら・・・見つけました!
もっと上に行く道をwww


▲山頂?から更に上へ
そしてまたよっこらしょと登ると、今度こそ頂上?という平場に辿り着きました。
そこには小さな祠と「古処山860米」と書かれた標柱があります。
登山口からの所要時間は52分でした。
確かに頂上っぽいな!とは思ったのですが・・・
何だか、、、脇に、、、登れ、、、的な板がw
板は雪がビッシリ付いていて、バイク用のシューズではどう考えても滑って無理。
でも・・・ここまで来て、この先を見ないで帰るのは悔いが残る!
ということで、手すりにつかまりながら、ほぼ腕力だけで上に登りました。

▲一番高い所
もうこれ以上高い所無いよね?という感じがしたので、これ以上先は見ませんでした。
さて、肝心の城跡ですが・・・
それっぽく見えたのは、先程の平場が2箇所だけでした。
秋月氏の最重要軍事拠点としては狭過ぎ、というかホントかよ?という狭さです。
そう思いながらキョロキョロと見回すのですが、どうも軍事拠点らしき跡が見当たりません。
とりあえず城のあった山の頂上には登った、と自分に言い聞かせて山を下りました。
そんな心残りがあったので、帰宅後調べてみたら衝撃の結末が・・・
来る前に参考にしていた城キチさん達のブログでは、遺構は見つからないというのが多いです。
しかし、山キチさん達のブログには「古処山城跡」と書かれた板の写真が散見されました。
つまり、城キチは城跡に辿り着かず、山キチが辿り着いているのです。
それで調べてみると・・・
「古処山城跡」の板は、山頂の南側の尾根にあると判明。
そこへは水舟より下から分岐して、紅葉谷を通った先にあるようです。
そこに至る道は・・・ロープにつかまりながら登るロッククライミング並の道だそうです。
あとは、
こちらは八丁越ルートですね。
また来る機会があれば、リベンジせなあかんと思いました。。。

おまけです。
麓の秋月城跡にある黒門は、古処山城の搦手門だったそうです。
こんなデカイ門が、かつてどこにあったのか探すのも楽しみ、かも。
◆歴史◆
古処山城は、築城から廃城に至るまで秋月氏の本拠地でした。
なので、秋月氏の関わった大きな事件も一緒に書きます♪
1202年、秋月種雄が秋月荘を与えられ、古処山城を築きました。秋月種雄は源平合戦で九州では平家方の中心人物であった原田種直の子です。
原田種直は戦後、所領を没収されて鎌倉に数年幽閉されていました。
秋月種雄が秋月荘を与えられた経緯はよくわかっていません。
古処山城は詰めの城で、普段は麓の荒平城を居城としていました。
1550年、大友氏で二階崩れの変。大友義鑑が殺され、
大友義鎮(のち宗麟)が家督を継ぎました。
秋月氏は大友宗麟と激しく争い続けることになります。
1551年、大内義隆が重臣・陶晴賢の謀叛で自刃しました。
豊前・筑前を支配していた大内氏の内紛は、
その後の北九州の戦乱の原因となりました。
1555年、毛利元就が陶晴賢を厳島で破りました。
毛利軍が北九州に進出すると、秋月文種は大友義鎮に反旗を翻しました。
1557年、大友軍の猛攻により、古処山城が落城しました。大友軍2万に攻められて落城し、秋月文種は自刃しました。
秋月文種の子・種実は、家臣に連れられて毛利元就のもとへ落ち延びました。
1559年、秋月種実が古処山城を奪回しました。深江美濃守が秋月種実を迎え、古処山の大友軍を破って所領を回復しました。
1562年、大友義鎮は出家して宗麟と号する。
1566年、高橋鑑種が反大友の動きを活発化させました。
この動きに秋月種実も連動します。
1567年、休松城の戦い
大友宗麟は戸次鑑連らに秋月攻めを命じ、休松城を攻め落としました。
しかし、毛利氏の豊前侵攻の噂が立つと、豊前衆が撤退しました。
この機を逃さず、秋月種実は夜襲をかけて大勝利を収めました。
1568年、大友軍により立花城が落城し、立花鑑載が自刃しました。
この戦いで秋月種実と高橋鑑種は降伏しました。
立花城には戸次鑑連(のち立花道雪)、岩屋城には吉弘鎮種(のち高橋紹運)が入ります。
高橋鑑種は小倉に移されましたが、秋月種実は所領を安堵されました。
1578年、耳川の戦い
大友宗麟が日向国耳川で島津軍に壊滅的な大敗を喫しました。
秋月種実をはじめ、北九州では再び反大友の動きが活発になります。
1586年、古処山城が廃城となりました。
豊臣秀吉の九州征伐で、最初にターゲットにされたのが秋月種実でした。
堅城で知られた岩石城が1日で落城し、益富城跡には一夜にして城が築かれました。
これで戦意を喪失した秋月種実は、名器「楢柴」と娘を差し出して降伏しました。
秋月種実は日向国高鍋へ移され、古処山城は廃城となりました。
1623年、黒田長政の3男・黒田長興が秋月藩を立藩し、秋月城を再興しました。
所在地:福岡県朝倉市秋月野鳥
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