2014/01/05
許斐山城/福岡県宗像市
許斐山城は国道3号線の南に聳える許斐山にありました。訪問日は2013年12月30日です。

▲このみ公園駐車場

▲登山口
許斐山に登るルートはいくつかあるようですが、東の六之神社から登りました。
場所は国道3号「王丸」交差点を南に曲がり、突き当たりを右へ。
ちょっと進むと写真のこのみ公園駐車場が左手に見えてきます。
奥の突き当たりは私有地で駐車禁止と書かれていますので、こちらにクルマを停めます。
駐車場から登山口までは徒歩3分でした^-^

▲登山道はだいたいこんな感じ

▲何回も出てくるスズメバチ注意
登山道はだいたい同じような傾斜が頂上付近まで続きます。
道端には写真のように「スズメバチ注意」が何回も出てきます。
掲示ごとにバラバラなのですが、活動時期は7月から12月位までだそうです。
スズメバチは羽音で威嚇するそうなのですが・・・
避ける方向を間違えるととんでもないことになるのがコワイですね(>_<)

▲それまでと雰囲気が一変

▲祠が見えました
だいたいずっと同じような調子の登山道が続くのですが、突然雰囲気が変わります。
道の行く手を塞ぐような土の壁。
そこに付けられた道は、それまでの綺麗な階段では無くなります。
お!雰囲気変わった!と登ると、その先に小さな祠が見えましたヽ(´ー`)ノ

▲山頂にある王子神社の祠

▲一段下がった平場が本丸
そこを登り切ると、頂上に小さな祠がありました。
登山口からの所要時間は20分です。
その日は5つ目の山城攻めでしたが、意外に早く登れましたヽ(´ー`)ノ
でも、いきなり本丸ということは、こっちが搦め手なんですね(^-^;)
祠の所が物見台状になっていて、すぐ脇にちょっと広い削平地がありました。

▲馬場

▲金魚池
本丸からさらに下った所に細長い削平地がありました。
ここは馬場だそうです(説明板がありました)。
お馬さんもやっぱり山城は疲れたでしょうねw
馬場から本丸を挟んで反対側には「金魚池」なる郭があります。
最初は見に行かないつもりでしたが、土塁があるらしいと事前情報。
せっかく来たんだしみるか、と思っていたら・・・!!
見てよかったです。
山城ならではの堀切と、郭入口を固める2重の空堀。
ぐるっとまわりを囲む土塁。
許斐山城で一番城跡らしい遺構が見られるのが金魚池周辺でした。
山城の生命線である水場なので、特に厳重に警備されていたのでしょうね。
◆歴史◆(推測が多いです)
許斐山城の歴史はわかっているようであまりわからず・・・
現地説明板をもとに、周辺であった出来事とリンクさせてみようと思います。
大治年間(1126~31年の間)、宗像氏平が許斐山城を築いたとされます。
太宰府は国司に対する支配を強め、在地領主も大宰府の権威を利用していました。
そんな中、宗像氏は社領を摂関家や院に寄進することで、太宰府からの離脱をはかりました。
そして1120年頃までには鳥羽皇后の荘園することで、不輸不入としたようです。
・・・ということは、太宰府に従う勢力と領地をめぐる争いがあったかもしれませんね。
1499年、蔦ヶ岳城主が許斐山城を攻め落とし、廃城とされました。
1467年に始まった応仁の乱以後、少弐氏や大友氏が北九州に攻め寄せました。
これは応仁の乱で東軍の大将であった細川勝元の策とされています。
西軍の大将・大内政弘の背後である北九州を霍乱して牽制するためでした。
北九州の在地領主たちは、切迫した状況でどちらに味方するか選択を迫られていました。
宗像家中でも大内派と少弐・大友派に分かれて争っていたようです。
1497年に大内義興が少弐政資・高経父子を肥前で討ち取っています。
・・・この辺の流れから、宗像宗家は大内派、許斐氏は少弐派だったのかもしれません。
1529年、宗像氏家臣・占部豊安が許斐城を再興しました。
1528年に大内義隆が家督を継ぐと、本格的に北九州制圧に乗り出しました。
肥前の少弐氏との戦いは1530年に始めているので、その準備だったかもしれません。
大内軍の強さは圧倒的で、1536年には大名としての少弐氏を滅ぼしています。
1583年、立花道雪が許斐城を攻め落としました。
大内・陶・毛利氏と大友氏による北九州争奪戦はずっと続いていました。
1569年の戦で宗像氏は大友氏と和議を結び、立花城主・立花道雪を婿としていました。
しかし、1581年に道雪に恨みを持つ宗像軍の一部が立花軍の兵糧隊を襲ってしまいました。
宗像氏貞は懸命に謝罪し、部将が諌めたのですが・・・
道雪は宗像氏を攻め始めました。
1585年、立花道雪が没すると、宗像氏貞は許斐城を奪還し旧領を回復しました。
1587年、豊臣秀吉による九州征伐の後に廃城となりました。
立花道雪とは行き違いで戦となりましたが・・・
豊臣秀吉による九州征伐は、島津義弘との戦いで劣勢だった大友宗麟の最後の頼みでした。
そのため宗像氏貞もどちらに味方するか、相当悩んでいたそうです。
そして豊臣軍が攻めて来る直前、氏貞は風邪をこじらせて42歳で没しました。
結局、宗像家中は豊臣秀吉に味方しました。
戦後、九州征伐の功によるわずかな領地が家臣には与えられましたが・・・
宗像家が当主不在で跡継ぎも無いことがバレ、所領は全て没収されてしまいました。
所在地:福岡県宗像市王丸(許斐山)
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