2014/01/04
帆柱山城/福岡県北九州市八幡西区
帆柱山城は花尾城の南西にある帆柱山の山頂(488m)にありました。訪問日は2013年12月30日です。

▲花尾城の城址碑近くで道が分岐します
帆柱山への登山道はいくつかあるようですが、花尾山城から登りました。
花尾城の二の丸と三の丸の間から、南へ道が分かれています。
この道を下った所に花尾城の城址碑があり、その脇に写真の案内があります。
「ふれあいの森コース」だけでは何だかさっぱりわかりませんが・・・
ちゃんと小さく「←帆柱山」が貼ってありました^-^

▲帆柱山への登山道
この道は半分以上は山の斜面に沿って緩い坂道になっています。
この斜面、沢の部分で崩れている所が目立ちます。まるで天然の竪堀ですね。
大雨なんかで崩れてしまうと、斜面を横移動できなくなります。
登山道を進んでいると、いつ山頂に着くんだろう?と思えてきます。
坂は緩く、ひたすら横移動が続きます。
ところが「あと500m」の案内の所から様相が一変します。
そこから九十九折れの道に変わり、斜面を一気に登る道に変わるからです。
坂も普通にキツクなり、10歩歩くごとに息を切らせて休憩しました。


▲山頂まであと95m。右に進む道の脇にある段郭
九十九折れの道に疲れた頃、道の分岐に辿り着きます。
その案内の下に小さく「帆柱山頂まで95M」と書かれています。
あと一息!と気力が沸いて来ました。
ここでキョロキョロしていると、ちょっと気になる地形が。
右に下って行く道の脇が、、、何だか、、、不自然?
よーっく見ると、階段のように2、3mおきに段状に加工されていました。
どうやらここから城域のようです。


▲山頂まであと少し。道の脇には石垣跡らしきものが
ここから山頂の方を見ると階段が。この階段を登ると何か見れるかも!
とワクワクしながら登ると・・・
段郭がいくつの続いている中で、石が沢山ある所がありました。
土が落ちて岩が露出したという感じではなく、何となくですが積まれたように見えます。
石垣の跡?と勝手に解釈して勝手に喜んでいますが、どうでしょう?w

▲帆柱山城の本丸
階段を登りきった所からは2、3段の郭を通り過ぎ、
最後の坂を登ると頂上に着きました。
山城の本丸って狭いですねw

▲本丸のすぐ南にある郭
本丸のすぐ下には、少し広い郭が見えました。
下りる道はわかりませんでしたが

山頂は物見台で、お城の建物はこっちのちょっと広い郭にあったかもしれません。

▲帆柱山山頂からの眺め
期待した眺めですが・・・木々が生い茂っているので、そんなに良くはありませんでした。
辛うじて北西の遠賀川一帯は見えましたが、花尾城は見えませんでした。
◆歴史◆
帆柱山城の築城時期は不明ですが、花尾城の南側を補う支城として機能していました。
このお城であった大きな出来事は、鎌倉時代末の規矩・糸田の乱です。
1333年、鎌倉幕府が滅亡。
1334年1月、最後の鎮西探題・北条英時の子・高政が、帆柱山城で挙兵。
1334年7月、大友氏や少弐氏を中心とした軍勢に攻め落とされた。
北条高政(規矩高政)は父・北条英時が自害した後、山鹿政貞の元に雌伏していました。
その年の末に実弟で田川一帯の領主・糸田貞義と謀って挙兵。
この時、北九州の山鹿氏や麻生氏、長野氏、門司氏などが味方になったそうです。
帆柱山城は花尾城の支城ですが、逆に花尾城を押さえないと帆柱山城へは進めませんでした。
花尾城は郭と郭が険しい斜面で区切られており、中々の堅城でした。
しかし、この花尾城の麻生氏が途中で寝返ったため、帆柱山城も攻め落とされました。
北条高政と糸田貞義は城を脱出しましたが、それぞれ捕らえられて討ち取られたそうです。
他には特にエピソードなど見つからず(;´Д`)
花尾城が目と鼻の先にあるので、歴史はほぼ同じと思われます(;´Д`)
・・・ということで、花尾城の歴史を参照下さい

所在地:福岡県北九州市八幡西区市瀬(帆柱山)
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