2022/03/06
勝浦城/千葉県勝浦市
勝浦城は、勝浦正木氏が本拠とした海城です。訪問日は2022年1月29日です。

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勝浦城跡は公園となっています。
トンネルを抜けた先に駐車場があり、遊歩道が整備されています。
道は岩を削られた壁に沿って二郭に至ります。
二郭は遊具を備えた広場となっています。
二郭の入口付近から北へ、これまた岩盤をブチ抜いた道があります。
その上にあるのが八幡神社です。
そこから右と左に道は分かれますが、左の道を上がった所が主郭です。
手前側には城主の娘・お万の像があり、奥は展望台となっています。
勝浦城本体はこれだけですが、付け根部分も城だったようです。

1 八幡岬公園入口
駐車場からすぐの所に、公園の入口があります。
虎口らしさもなく、ただの公園っぽく見えます。

2 案内図 拡大表示
入口にある公園の案内図です。
真ん中の「子供の広場」が二郭、奥の「展望広場」が主郭です。
駐車場が三郭でしたが、改変され過ぎて平らな事以外に面影がありません。

3 切岸?
駐車場から奥へは、こんな道が続きます。
往時にどこからどう通ったかが?ですが・・・
ここがその道だったのかもしれません。
房総らしい、岩盤ブチ抜きなので^^

4 八幡神社入口
しばらく進むと、左側に手彫り感満載な石段が現れます。
その上に鳥居があり、この奥に八幡神社があります。
通りやすい地形ではなく、わざわざ掘られた道が続きます。
この地形を利用しようと、かなりの労力が使われたようです。

5 八幡神社
登り切った所にある神社です。
八幡神社は戦勝を祈願する神社です。
往時の城主様が祀ったものでしょうか。
陸から城への入口を監視する場所に丁度よさげな高台です。

6 二郭
脇道があったのでつい入りましたが、神社の前に広場があります。
城跡感ゼロですが、ここが二郭跡です。
海に突き出した岩の岬にある、天然の広場のようです。

7 説明板 拡大表示
左側に、渋い感じの説明板があります。
ザックリですが、要点を手短に伝える感じの文面です。
まさかココが徳川御三家の内、二家のルーツだったとは。

8 主郭手前の激しい藪
目立つ道をそのまま進むと、左側に密度の濃い藪があります。
あまりにも濃いので、中の様子をうかがう気になりませんでした。
ここも曲輪のようです。
帰りに覗いて見ると、確かに地形は平らなようでした。

9 主郭
そして、一番奥にあるココが主郭です。
堀も虎口も土塁も無く、言われなければ城跡とは気付きません。
見晴らしの良い岬にある、海が良く見える展望広場そのものです。
軍事的にはとても大事な要件ではありますが。

10 お万像
手前側には、女性の像があります。
水戸と紀伊の徳川家の母となった、お万の方という人物です。
城主様の娘だそうで、里見家改易後に徳川家康の側室となりました。

11 空から
さて、広い公園には私一人でよく晴れ風も無し。
これはお空を飛べと促されているように感じられてなりません!
ということで、少しだけ飛びました。
海上は初めてなので、ビビりながら撮りサッと戻りましたが。
地上ではわからない地形が見えて良かったです^^
ただ後から思い返すと、港のある左側の写真も欲しかった・・・
城キチの欲望は、果てしも無く深淵なのであります(`・ω・´)

12 付け根へ
岬の先端部が勝浦城の主要部ですが、それだけでは狭いと感じました。
陸地で言えば岬は舌状台地のようなもの。
それであれば、付け根側にも曲輪が連なっていそうだと感じました。
トンネルを出て二又に分かれる道の、右上へと少し歩いてみました。

13 堀切
岬は細尾根状で、少し歩いた所に堀切がありました。
この感じ、自然に出来たとは思えないザックリです


14 鳴海神社
堀切の奥にあるのが鳴海神社です。
細尾根には似つかわしくない、安定した平地が奥まで続きます。
奥へ行くほど狭くなり、最後には身動きの出来ない藪

上にはポツリポツリと家が建っており、別荘地のようです。
別荘を建てるためなのか、元からの地形なのか・・・
細尾根の上は平らな地面が続いていると確信しました。
他人様のお宅なので入れず、状況から何となくそう感じただけですが

◆歴史◆
1521年、真里谷信清により築かれました
真里谷家は、勢力拡大を続ける里見家対策に悩まされていました。
そのため安房の東に小田喜城(後の大多喜城)や勝浦城を築きました。
この頃の里見家は、里見義通が当主でした。
里見義通は上総南部を攻め、内房正木一族を従えた人物です。
当初は古河公方に従って「副師」と称していたそうです。
1518年、真里谷信清が小弓城を奪い、足利義明を公方としました。
小弓公方は古河公方と対立する勢力であり、旗頭を立てたと思われます。
真里谷家が、同じ古河公方陣営だった里見家を攻める口実でしょうか?
しかし、足利義明から里見義通に宛てた1520年の書状があります。
真里谷家が里見家の北上に備えるなら、もっと前だと思われます。
1542年頃、正木時忠の城となりました
里見家と真里谷家は、小弓公方に従っていました。
しかし、小弓公方は1538年の国府台合戦で討死。
小弓公方に敗れ家督を失っていた真里谷信隆が反撃に転じます。
後北条家の後押しを得た真里谷信隆が、再び真里谷家当主となります。
敗れた真里谷信応は、里見義堯を頼り安房に逃れました。
里見義堯は混乱する上総の、小田喜城の真里谷朝信を攻めました。
真里谷朝信は、里見義堯が戦った里見義豊の正室の父親です。
・・・同姓どうしの争いが多いので混乱しますね


これでスッキリ(*'ω'*)
里見義堯は正木時茂・時忠兄弟に命じ、小田喜の真里谷朝信を攻めます。
その結果、1542年頃に勝浦城を奪い、正木時忠が城主となります。
1544年には真里谷信朝を討ち取り、正木時茂が小田喜城に入りました。
正木兄弟は里見義堯に命じられて東へ転戦し、勢力を拡大しました。
1564年、正木時忠が後北条家に寝返りました
正木時忠は、上総東方の総司令官である兄・正木時茂を補佐していました。
その兄が1561年に没すると、弱体化した正木家の中心人物となります。
丁度この頃、上総西部では内房正木家が後北条家に寝返り暗躍。
里見家は上総西部で後北条軍と一進一退を繰り返していました。
その中で里見義堯は、内房正木氏を懐柔するため金谷城を与えました。
金谷城は元々は内房正木氏の根拠地であり、里見義堯の誠意がうかがえます。
しかし、当時は後北条軍と戦う正木時忠の持ち城でした。
内房正木氏は、長尾景虎が関東に侵攻する頃には里見家に帰順したようです。
それと入れ替わるように、正木時忠が里見家に反旗を翻しました。
1564年、里見家は後北条家と雌雄を決すべく国府台で決戦に挑みました。
この直前に、正木時忠は後北条家に寝返りました。
それから10年程は里見軍と戦いましたが・・・
後北条軍が武田軍と駿河を争うようになると、孤立無援となります。
1570年代後半には、里見家に帰参したと考えられています。
1578年頃、正木憲時に攻め落とされました
里見義弘の没後、里見義頼と梅王丸の間で争いが起こりました。
里見義頼は里見義弘の弟で、安房一国の相続が決まっていました。
梅王丸は里見義弘の晩年に生まれた嫡男です。
この頃、勝浦城主の正木頼忠は小田原から帰って来たばかりでした。
正木頼忠は里見義頼を支持し、梅王丸を支持した正木憲時と対立します。
大多喜城主・正木憲時は正木時茂の子で、正木頼忠とは従兄弟です。
正木憲時は勝浦城を攻め、陥落させました。
正木頼忠の娘・お万が城を脱出「お万の布晒し」はこの時の事です。
ザックリいうと、断崖絶壁に布を垂らして脱出したというお話です。
正木憲時は1581年に討ち取られ、正木頼忠は勝浦城に復帰しています。
1590年、廃城となります
豊臣秀吉の小田原征伐の際、里見家がとった行動により改易となります。
里見家は安房一国のみ安堵され、上総にあった勝浦城は没収されました。
正木頼忠は安房へ移り住み、勝浦城は廃城となりました。
上で紀州徳川家と水戸徳川家のルーツと書いたのでザックリ書くと・・・
正木頼忠が里見義頼の妹を正室に迎え、お万の母親は別家に再嫁しました。
後北条家臣の蔭山氏広ですが、小田原征伐で没落します。
同じ元後北条家臣・江川英長を頼り、その養女として徳川家康と会います。
徳川家康は美しく才能溢れるお万を、側室として迎えました。
そうして生まれた子が、紀州と水戸の分家の祖となります。
正木頼忠は徳川家康から出仕するよう誘われますが、固辞します。
その代わりとして、正木頼忠の子・為春が3000石で仕えました。
後に三浦姓の名乗りを許され、紀州徳川家の附家老となっています。
所在地:千葉県勝浦市浜勝浦 GPSログダウンロードページ
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