2014/01/03
畑城/福岡県北九州市八幡西区
畑城跡は、畑貯水池の南側にあります。訪問日は2013年12月30日です。

▲貯水池脇にある駐車場(無料)
畑貯水池はナビにもあるのですんなり着きました。
県道61号の左脇(貯水池側)にトイレと駐車場があります。

▲砕石場
来る前に見たGoogle Mapではココから登ると思ってた場所は・・・
これでもか!という位に「立入禁止」の立て看板が。
防犯システムが作動する、とまで書かれていました。
ん~、みんなどこから登ったんだろう?

▲歩道にある案内
改めて現場でiPhoneを取り出してググッてみると、
どうやら登城口は別にあるよう。
駐車場から2、3分先に進んだ所にありました!
城跡への案内がヽ(´ー`)ノ
・・・でも、歩道のフェンスは途切れておらず、
跨いで道を渡るしかありません。
確かにここ渡る人ってそんなに居ないかもしれませんが



▲登城口にある説明板と城址標柱
歩道の案内から道の反対側に、城址標柱と説明板があります。
この後ろが登城路となっています。

▲登城路
来る前は綺麗な道を楽々登るもんだとナメていましたが・・・
鷹取城を2時間かけて攻略した後の山道は、
ほんの少しでも足に堪えました(;´Д`)
とはいっても、たった7分で二の丸まで登れましたけど^-^

▲二の丸
二の丸には2つ並んで小さな祠が祀られていました。
城址碑や説明板の類はありません。
まぁ、でもここ特有の記念碑的なものではありますがw

▲削り取られた斜面とその向こう側
周りに何か遺構はないかな~と、奥に伸びる道を進むと・・・!
道はパッタリ途切れていました。
その藪の向こう側が何か変だと思ったら、
斜面がザックリ削れて断崖になっていました。
本丸が砕石で消滅したとは書かれていましたが、
それがこれだとは。
二の丸のすぐ脇まで削られていたんですね。
砕石場は今も稼動しているようですので、
二の丸が消滅しない事を祈るばかりです。
◆歴史◆
畑城は香月荘を治める香月氏が代々の本拠としていました。
築かれたのは平安時代と考えられています。
源平合戦の頃、
香月秀則は平家に味方した山鹿秀遠の伯父にあたる人物とされています。
香月秀則は山鹿秀遠とともに平家に味方したため、一時所領を失いました。
その後、香月則宗は梶原景時に従って関東に奉公し、
所領を回復することができました。
しかし、1221年にあった承久の乱で宮方に味方したため、
再び所領を没収されてしまいました。
ところが、香月則宗の子・則定の舞が気に入られて、
所領を返してもらえました。芸が身を助けたんですね♪
南北朝時代、香月則道は少弐氏と行動をともにしていたようです。
少弐氏は北九州一帯を支配し、大友氏や菊池氏と覇を競っていました。
近くの鷹取城は少弐氏の城であり、
香月氏への影響力が大きかったと思われます。
当時は足利尊氏とその弟の直義、さらに朝廷が争っており、
とても複雑な状況でした。
香月氏の去就が定まらなかったのはそのせいもあったかもしれません。
その頃、後醍醐天皇の皇子・懐良親王が
制西将軍として九州に下向して来ました。
香月則道には跡継ぎが無く、
懐良親王の御供・勅使河原某の子を迎えて跡継ぎとしました。
これが香月則村で、市瀬城を居城としました。
ところがその後、香月則道に実子・則次が生まれました。
・・・あとはまぁ予想通り、家督を巡る内紛が起こりました。
この争いは市瀬城の香月則村が勝利し、
香月則次は大内氏を頼って山口へ逃れました。
香月則村はその後、麻生氏と姻戚関係となって
市瀬麻生氏を名乗るようになりました。
香月則次から5代後、
香月興則は大内義興の協力を得て畑城に復帰します。
1478年、大内政弘が麻生氏の内紛に付け込んで北九州を制圧しており、
この頃と思われます。
大内氏は麻生氏を完全に乗っ取り、
市瀬麻生氏も所領を追われたか可能性があります。
香月興則は大友宗麟に焼かれた近在の寺社を、
1480年代に数多く再興しています。
1587年、豊臣秀吉による九州征伐がありました。
この戦いの後、香月孝清は畑城を追われて植木に蟄居させられています。
ここで主を失った畑城は廃城になったと思われます。
この経緯はサッパリわからないのですが、
恐らく秋月氏に同調したためでないかと思われます。
香月氏はその後、福岡藩の大庄屋となって貸方・酒造業を営んだそうです。
所在地:福岡県北九州市八幡西区畑
福岡県の城跡/なぽのホームページを表示 |
コメント