2014/01/02
鷹取城/福岡県福智町
鷹取城は黒田六端城の1つで、福智山の支峰・鷹取山山頂にありました。訪問日は2013年12月30日です。

▲南側からの遠景
朝一の飛行機で羽田から飛んで北九州空港へ。
レンタカーを借りてナビを県道62号の「白糸の滝」辺りにセットします。
登城口に向かう県道62号からは、雄雄しい山が前方に見えました。
鷹取山は左端で、右端の一番高い山が福智山です。

▲車道の突き当たり
そして空港から走ること小1時間。
朝9時過ぎには県道62号のゲートに辿り着きました。
この辺りには登山者や白糸の滝に来た人用の無料駐車場がいくつかあります。
ここからは徒歩。
右の道には「登山道→」とありましたが・・・
私は綺麗で楽な道がイイ!
ということで、ゲート脇から県道を進みました。

▲県道のゲート脇を抜ける
道は舗装されてとても綺麗です。
土砂崩れで通れないってどこだろう?といった感じです。
この道の車両通行止めはもう何年も続いてるようです。
何度かヘアピンカーブを通り過ぎると、
写真のように再びゲートが現れます。
iPhoneで地図を確認すると、
市町村堺線がカーブの左脇から北へまっすぐ伸びています。
その先にあるのが鷹取山山頂です。
机上ではここから尾根伝いに登山道があると予想して来ました。
登山ルートって事後だと見つかるんですが、
事前にはネットでも中々見つからなくて

これから登る人にそんな思いをさせまい!
というのがブログを書く動機にもなっています。
で、予想通りゲートの左脇から
人が歩いたっぽい道が林の中に続いていましたが・・・
登山大嫌いな城キチの勘が、
この先にもっと楽な道があると告げていました。
この勘、今まで意外と当たって来たもので、
とりあえず綺麗な道を進み続けました。

▲だんだん雪道に
標高が上がるにつれて、積雪量が増え始めてきました。
山頂付近は大丈夫だろうか?登山道具は熊鈴1個しか持ってない私は、
平地の格好そのままだったので。
靴はバイク用のシューズで、当然滑り止めなんかついていません。

▲林道脇から登山道へ
しばらくズンズン進んで行くと、道端の木に赤ペンキでマークされ、
「←福智山」の案内が。
iPhoneで位置を確認すると、道が北にとんがった所でした。
そこからまっすぐ登ると鷹取山と福智山の間の稜線に出そうな感じ。
城キチ(山キチではない)の勘、恐るべしヽ(´ー`)ノ


▲雪の登山道を登ると稜線で道が分岐します
ノーマルタイヤで雪道を走るが如く、
バイクシューズで雪の山道を慎重に登りました。
それなりに急坂ではありますが、山道としては普通かも。
そんな坂を10分程登ると、左右に開けた場所に出ました。
そこは四方に道が分岐していて、もちろん鷹取山への道もありました。

▲堀切
迷わず鷹取山の方に歩き出すと、5分もしない内に人口的な地形が。
雪が積もっていても、堀切を見落とす私ではありません。
さらに、周囲は地表がどこも凸凹。噂どおり、
山頂は畝状竪堀でビッシリ囲まれているようです。

▲本丸到着ヽ(´ー`)ノ
そして、パッと空が開けた本丸に到着しました。
駐車場からの所要時間は60分でした。

▲本丸に残る石垣
噂通り石垣の遺構がありますが・・・
一面真っ白な雪で覆われていて、あんまり見えません。
きっと、雪が無ければもっと沢山見えるのでしょうが(>_<)
それでも、ほんの少しでも見えたことを素直に喜びました。

▲福智山
本丸から東を見ると、北九州の最高峰・福智山が見えました。
福智山からは鷹取山城が丸見えらしいのですが・・・
ただでさえ登山大嫌いで雪まで降っているので、
ここで大人しく山を下りました。
◆歴史◆
1046年、赤池町の豪族・長谷川吉武が、家臣の永井宗久に築かせました。
長谷川氏は元は大和国初瀬川の出で、
奥州安倍氏の下で土木工事を請け負っていました。
ところが、安部氏は朝廷に従わず貢租を納めないため、
追討されるのは時間の問題でした。
長谷川氏が戦乱を避けて九州に移って来たのがこの頃とされています。
安部氏はその後、源頼義により滅ぼされてしまいました。
(1051~62年、前九年の役)
九州に移って来た長谷川氏が城を築いた経緯まではわかりません。
尚、築城年は1063年という説もあるそうです。
1333年、少弐頼尚が再度城を築き直しました。
・・・ということは、やっぱり長谷川氏の時代に争いごとがあったんでしょうね。
その後役目を失って放置されていたのでしょう。
1333年は南北朝の動乱の時期で、少弐頼尚は足利尊氏に味方していたそうです。
そのため、朝廷方であった菊池氏や阿蘇氏と争っていました。
その3年後には筑前・多々良浜で菊池氏・阿蘇氏を散々に打ち負かします。
更に足利尊氏に従って畿内にまで攻め上がり、
九州の北半分を手中に収めました。
1345年、筑紫統種が城主となり、数代に渡って筑紫氏の居城となりました。
筑紫氏の出自は不明ですが、書状や家紋から少弐氏一門と考えられています。
1396年、今川了俊の後任として渋川満頼が九州探題となります。
少弐氏と菊池氏はともに九州探題・今川了俊に抑え込まれていました。
今川了俊を失脚に追い込んだ両家は、
その後も協力して渋川氏に対抗したらしいのですが・・・
1399年、菊池武宗により鷹取城が攻め落とされました。
ここの経緯はサッパリわからず。
ググッてもあまり出てこないということは、
菊池武宗は当主ではなさそうですね。
渋川氏は大内氏に協力を求めたため、
大内氏が北九州に進出する大義名分となりました。
しばらく時代は飛んで・・・
1542年、大友義鎮の軍勢に攻められ、籠城した毛利鎮実が降伏しました。
戦国時代、大友氏の家臣・毛利鎮実が鷹取城の城主となりました。
毛利氏は嘉穂郡の遠賀川東岸を領する在地領主だったようです。
当時の北九州地方は大友氏と大内氏が激しい争奪戦を繰り返していました。
在地領主の毛利鎮実は大内氏有利と見て寝返ったようですが・・・
大友義鎮の命令で十時摂津が鷹取城を攻め、毛利鎮実は降伏しました。
毛利鎮実は戦は苦手だったようで、
1580年の宗像氏の猫城攻略に失敗しています。
1581年、鷹取城下で立花軍と宗像軍が交戦し、宗像氏が窮地に陥ります。
当時、秋月種実が毛利鎮実の領地を少しずつ侵食していたそうです。
この年、鷹取城下では米が不作で飢饉となり、城の首尾も危うかったそうで・・・
そこで立花道雪が自領の兵糧を援助するため、鷹取城へ運びこみました。
ここで宗像氏の一部の家臣が、兵糧を運び終わった立花軍に襲い掛かりました。
そこへどう立ち回ったのか、秋月氏の兵も交えた乱戦となったそうで・・・
激怒した立花道雪は、宗像氏の本拠を攻め落としてしまいました。
1586年、大友氏に帰参した筑紫広門が城主となります。
当時、大友氏は島津氏と争っていましたが劣勢でした。
筑紫氏が大友氏に従っていたため、
島津軍の標的となって筑紫広門は捕らえられました。
しかし、大友氏の要請により豊臣秀吉が九州征伐の軍勢を率いて来ました。
島津軍が撤退する際に筑紫広門は幽閉先からの脱出。
軍勢をまとめて、失った所領を島津軍から奪い返すことに成功しました。
この時の鷹取城についてはわかりませんでしたT_T
戦後、筑前一国は小早川隆景の領地となりますが、その間の事も不明です。
1601年、筑前領主となった黒田長政は、母里友信を鷹取城の城主にします。
関ヶ原の戦いの後、黒田長政は豊前から筑前へ移されました。
豊前には、細川忠興が丹後から移されました。
ここで年貢を巡るトラブルがあり、両家は一触即発の状態になりました。
黒田氏が豊前の年貢を持って行ったため、
細川氏が無収入になってしまうからです。
細川氏が年貢を返すよう黒田氏に迫りますが突っぱね続け・・・
戦も辞さない険悪な状況となり、
筑前と豊前の国境は厳重な警備が敷かれました。
この時に黒田氏が特に重要拠点と位置づけたのが
「黒田六端城」と呼ばれる城です。
そこに配置された武将は、黒田氏きっての猛将ばかり。
母里友信はその中でも1、2を争う猛将でした。
結局この争いは徳川家康が仲裁し、黒田氏は細川氏に年貢を返還しました。
1606年、母里友信は益富城に移り、手塚光重が城主となります。
1615年、一国一城令により廃城となりました。
所在地:福岡県田川郡福智町上野
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