2014/01/02
馬ヶ岳城/福岡県行橋市
馬ヶ岳城は山頂から東の峰と北の尾根に沿ってありました。訪問日は2014年1月1日です。


▲大谷交差点すぐの説明板
馬ヶ岳へは行橋から西へ向かい、県道58号「大谷」交差点を左折します。
すると、すぐに道の右側に写真の説明板があります。お!という感じで、
後続車が無いことを確認してバッチリ撮りました^-^
登城口へはここから細~い右側の道をひたすら進みます。


▲登城口と幟
舗装路が右へクッと曲がる所が登城口です。
今は今年始まる大河ドラマの影響で派手な幟が立っています。
2年前に通り過ぎた時にはありませんでしたが・・・
説明板もあるのですぐわかります。
この前にある空きスペースに車を停めて、階段から登ります。


▲堀切とその奥の土塁・段郭
Google Mapでは登城路の西脇に道があって、
ちょっと進んだ所で登城路と交差しています。
机上ではそこから登れば楽じゃないかと思っていましたが・・・
西の脇道は途中から車両進入禁止。
付近にクルマを止められそうなスペースは全く無いので、
結局登城口まで戻りました。
登城口からは緩い上り坂が続きますが、一旦また地上に下ります。
説明板ではそこが堀切として書かれていました。
確かに尾根が一旦分断されていますが・・・
どう見ても自然地形です。
Google Mapで道として描かれている所は堀底道のようですが・・・
50m位は進めるのですが、その先は荒れた竹薮になっています。
で、説明板には書かれていませんが、土塁の反対側は段郭になっています。
かつてはここも登城路だったのかもしれませんね。

▲展望台から見た東西の峰
ここからは若干坂がキツクなりますが、
前日よじ登った古処山城と比べれば楽です。
比較対象が間違っている気はすごくしますが

古処山城の事は後日改めて書きます。
ちょっと登った所で左右に道が分かれていて、
すぐ左脇に展望台があります。
そこには「太閤岩」「官兵衛岩」「又兵衛岩」が3つ並んでいます。
この3人、ここで何かを話したんでしょうか。
内容が気になります。
ここからは登城路では初めて、
馬ヶ岳の東西の峰が木々に遮られずに見ることができます。

▲東の峰(二の丸)
登城路は一気に傾斜がキツクなり、辿り着いた平場が東峰です。
登城口からの所要時間は20分です。
山城攻略は3日連続の3日目でしたが、意外とあっさり登れてしまいました



▲西の峰手前の横堀
東の峰から西の峰を見ると・・・やっぱり一旦下るのですね。
下った鞍部はフラットな道で、歩きながら休憩といった感じになります。
ここから左側(南)に下りる階段があり、「ニ兒神社→」と案内が有りました。
こちらの登城路にも何らかの防御施設があるのでしょうか。
・・・体力的に見に行く余裕はありませんが、興味だけは尽きません

フラットな道がひと段落し、また急な坂道が現れます。
西の峰へのラストスパートです!この坂道の途中に甘い誘惑が。
「←横堀 20m」って・・・見に行くでしょwww
脇道は大してアップダウンもなく、
すぐにザックリ削られた堀が姿を現しました。
ヽ(´ー`)ノヽ(´ー`)ノヽ(´ー`)ノ
たぶん、個人的にはここが一番の見所なのかもしれません。

▲西の峰の手前にある削平地
更に最後の階段が見える辺りで、右脇に伸びる細長い平場が見えました。
特に何の説明も無いのですが・・・あ・や・し・いw
もちろん見に行きました。目だつ遺構は特にありませんが、
何も使われない筈は無さそうな場所です。

▲新田氏顕彰碑
そして最後の階段を登り切ると、そこには立派な石碑がありました。
登城口からの所要時間は30分です。
比高200mで30分というのが、私の山城攻めのペースみたいです。
ここも東峰同様、360度のパノラマが広がります。
豊前の要衝として激しい争奪戦が繰り広げられたのも頷けます。


▲東の峰をパスする道
さて、眺めも堪能し、説明板もじっくり読んだら即退散です。
しかし、ここを下るとまた東の峰登り直すのかな?とちと憂鬱に。
西の峰を下って東の峰に続く鞍部を歩いていると、左脇へ1本道がありました。
そういえば、東の峰の手前に右脇にそれる道があったような・・・!!
横着者の勘は見事的中し、
東の峰を登り直さずに下山することができましたヽ(´ー`)ノ
◆歴史◆
942年、源経基が築き、橘公頼の子・昌頼が城主となる。
1151年、源為朝が攻め落とし、草野氏が城主となる。
1185年、源平合戦の際、緒方九郎が平家に叛き籠城。
源平合戦の功により、武藤資頼が大宰少弐に任じらる。
武藤資頼の子・資能が少弐姓を名乗るようになる。
1340年、京から逃れた南朝方の新田義基が入城。
子の新田義氏は大内義弘に降伏し、北朝方となる。
1431年、反幕府勢力の菊池武忠が3代目の新田義高を破り、馬ヶ岳城も落城。
すぐに幕府方の大内盛見が攻め落とし、子の大内教幸が城主となる。
1469年、大内教幸が大内政弘が留守の間に謀反を起こし、馬ヶ岳城に逃亡。
1472年、大内教幸は自害し、陶氏の城となる。
1500年、少弐資元が大友親治と組んで馬ヶ岳城を攻め落とす。
1501年、大内義興が反撃し、馬ヶ岳城を奪還する。
1504年、大内氏家臣・鷲頭氏が城主となる。
1556~69年、大内氏滅亡後、毛利氏と大友氏が豊前争奪戦を繰り広げ、
大友氏の城となる。
1573年頃、秋月種実の弟・長野種信が馬ヶ岳城主になる。
1578年頃、耳川の戦いで大友宗麟が島津氏に大敗。
長野種信が兄・秋月種実に連携して大友氏に叛く。
その後、大友方の長野助守が城主となった。
1579年、毛利氏に攻められ長野助守は降伏。毛利氏の配下となる。
1581年、長野助守は同じ毛利氏配下で松山城の高橋元種を攻める。
1586年、豊臣秀吉の九州征伐で豊臣軍に降伏。
豊臣秀吉が馬ヶ岳城に立ち寄り宿泊する。
1587年、豊前国が黒田如水の領地となり、馬ヶ岳城を居城とする。
年内に中津城を築き移る。
1602年、関が原の戦の功により、細川忠興が豊前国に移封。
細川忠興は中津城に入り、小倉城の大改修を始める。
1615年、一国一城令により廃城となる。
所在地:福岡県行橋市津積
福岡県の城跡/なぽのホームページを表示 |
コメント