2013/12/29
剣岳城/福岡県鞍手町
剣岳城跡は剣岳公園となっています。訪問日は2013年1月1日です。
最初は少し道に迷いましたが、八剣神社をめざすとよいです。
元日ということもあって、参拝客がちらほら居ました。
神社の目の前を横切って右に行く道があり、やがて剣岳公園の案内が出ます。
あとはその案内に従って登っていくと駐車場に辿り着きます。

▲駐車場から
城跡は公園となっていて、車で来る事ができます。
歩道も整備されていて、とても歩きやすいです

ですが、さすが山のテッペン。
大晦日に降った雪がまだ残っていました。
ゆる~い階段を登っていると、何だか地形が少し不自然。
2、3m間隔で段々になっています。何の跡なのかが気になります。

▲階段を登り切った所からの眺め
もう少し登ると広い場所に出てます。
城跡の面影がかすかに、、、あるような、、、
写真右下から上に向かっている溝は堀跡でしょうか?


▲二の丸の段差
更に登ると二の丸に至ります。
二の丸の入口にはわずかですが石垣が!
今回初めての石垣に思わず興奮気味ですヽ(´ー`)ノ

▲説明板
その先に説明板がありました。
イラストがとても分かりやすくてイイですね

イラストでは周りが急な斜面に見えますが、現状は緩いです。
年月とともに崩れてなだらかになったのでしょうか・・・
土塁は低く、空堀も浅かったです。やっぱり崩れたのでしょうね。

▲本丸手前の堀切?
説明板から先はまた少し段差があり、その手前は少し窪んでいました。
普通に考えれば堀切なのでしょうが・・・かな~り浅くなっています。
でも、造りは何となくわかります^-^

▲展望台の足元から振り返る
本丸には展望台があります。
どんより雪雲に覆われていたので眺めはサッパリでしたが

その展望台から降りてさぁ次!と思ったら、何となく城の形が見えたような気が。
それで撮ったのが上の写真です。何となく土塁とか空堀の配置がわかりませんか?
◆歴史◆(かなり推測)
ここもあんまり詳しい事はわからないので、かなりザックリと。
応仁年間(1467-68)、梅野土佐により剣岳城が築かれました。
同時期に音丸城、腰山城、古野城なども築いたようです。
この頃の北九州は、山口の大内政弘の支配下にありました。
しかし、応仁の乱で大内政弘が上洛すると、少弐氏が北九州を席巻しました。
恐らく、少弐氏の来襲を想定していたのだと思われます。
文明年間(1469-84)、宗像氏に攻め落とされました。
宗像氏は大内氏に協力的でしたが・・・
1469年に少弐氏が攻めて来た時、宗像氏も大内派と少弐派に分裂しました。
大内家臣がいた剣岳城を攻めたとすれば、恐らく少弐派だと思われます。
1470年、大内政弘は一時帰国し、少弐氏と戦いました。
大内軍は優勢に戦いを進め、1472年には筑前を回復。
山口に逃れていた大内派の宗像氏定が宗像に戻って来ました。
宗像氏定の没後に家督を継いだ興氏が早世。
宗像氏国の嫡男・宗像正氏が家督を継ぎました。
宗像氏国は少弐派だったのですが・・・
宗像家の分裂は、家名存続が狙いだったようですね。
1500年代、秋月氏に攻め落とされ、跡部安芸守が城代となりました。
詳しい年は丸っきりわかりませんが・・・
周囲の状況から1581年のことと思われます。
秋月種実が大友方の鷹取山城を攻めました。
この時に宗像氏を揺るがす大事件が起きます。
鷹取山城からの要請で、立花道雪は鷹取山城に兵糧を送りました。
宗像氏の領内を通るため、宗像氏貞は協力したのですが・・・
立花道雪に恨みを持つ一部の宗像家臣が、立花軍に襲い掛かりました。
更に、どこからか現れた秋月軍まで加わっての戦いとなりました。
その場の戦いは立花軍が納めました。
宗像氏貞も謝罪したのですが、立花道雪の怒りは収まりませんでした。
そのため、立花軍が宗像氏の本拠・許斐城を攻め落としました。
このどさくさに紛れ、秋月軍が剣岳城を攻め落としたのかもしれません。
1587年、豊臣秀吉の九州征伐に抵抗したため攻め落とされました。
秋月氏は豊臣秀吉の九州征伐の際に抵抗しました。
そのため、秋月氏の城は豊臣軍の腕慣らしの場となってしまいました。
堅城として知られた岩石城がたった1日で落城。
剣岳城も攻められ、跡部安芸守ら城兵は討ち取られました。
この時に廃城になったと思われます。
所在地:福岡県鞍手郡鞍手町中山
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