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佐貫城/千葉県富津市

佐貫城は、里見軍と後北条軍が激しい争奪戦を繰り返した城です。
訪問日は2022年1月29日です。

【位置・再】佐貫城
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佐貫城は、断崖に囲まれた丘陵上に築かれた連郭式のお城です。
地図を見ると、TTTTTに囲まれていますね!
南端の三の丸下に、広い駐車場があります。
そこから整備された道が城内へと続きます。
本丸周辺は房総の城跡らしく、削り残しの土塁が多く見られます。
松天神や松八幡は屏風状の岩の細尾根で、東京湾への展望が利きます。
その背後は、隣接する尾根を断ち切る大きな堀切が見られますラブラブ

【1】佐貫城
1 入口 説明板を表示図を表示

城跡南端にある城跡の入口です。
正面には縄張図のある説明板があり、背後に石垣の櫓台があります。
江戸時代を通じて藩が置かれたので、石垣があるのは納得ですが・・・
記憶を辿る限り、ここ以外に石垣が無かったような気がします。

【2】佐貫城
2 三の丸

入口から上がった所が三の丸です。
三の丸は数段から成る曲輪群です。
里見家の本拠だっただけあり、とても広いです。

【3】佐貫城
3 二の丸手前の堀切

通路を進むと、白い札のある堀切があります。
二の丸から伸びる尾根を断ち切っているので、堀切ですよね?
堀底が通路なので、虎口も兼ねていたと思われます。

【4】佐貫城
4 三の丸と二の丸の間

上の白い札の左側は、こんな感じになっています。
城キチなら、この奥からとてつもない引力を感じると思います。
引力を感じたのは、私の中にある黒いヤツだけかもしれませんが・・・

【5】佐貫城
5 二の丸と本丸の間の堀の開口部

その黒いヤツの直感に感謝!
右に二の丸の岩盤を掘った切岸が続き、こんなポッカリもあります。
これは、本丸と二の丸を隔てる堀の端っこです。
登れないこともなくはありませんが、面倒だったので登っていません。

【6】佐貫城
6 松天神下の土塁

二の丸切岸沿いに奥まで進むと、堀と土塁が現れます。
左の土塁上には歩いた跡がありますが、私はここまでとしました。

【7】佐貫城
7 二の丸の虎口

3まで戻り、再びメジャールートを進みます。
段差を掘り下げたココが、二の丸の虎口です。

【8】佐貫城
8 二の丸

とは言え二の丸の大半は藪なので、見られるのは通路沿いだけです。
意を決して飛び込めば見られますが、私はやりませんでした。

【9】佐貫城
9 二の丸と本丸の間の堀

二の丸と本丸の間は、堀で隔てられています。
だいぶ埋まってる感じはしますが、それでもかなりの規模です。

【10】佐貫城
10 二の丸と本丸の間の堀

二の丸から見て左側は、歩けそうもない草の海です。
超有名どころの城跡でも、堀って大体こういう扱いですよねクローバー

【11】佐貫城
11 本丸

本丸内部は、下草も無く歩きやすくなっています。
等高線を見てしまうと、これだけじゃない気もしてきますが。

【12】佐貫城
12 本丸の土塁

二の丸との間の堀に沿って、土塁が続いています。
この土塁はそのまま奥まで続き・・・

【13】佐貫城
13 松天神のある物見台

松天神のある物見台まで続いています。
奥の柵の下は、とんでもない崖になっています。
物見台からは、東京湾がとてもよく見えます。

【14】佐貫城
14 本丸北の道

本丸の形をトレースしようと、外周に沿って歩きました。
二足歩行で歩ける所をと、補足しておきます。
こんどは北側に続く道を発見!
もちろん、行ける所まで行ってみました。

【15】佐貫城
15 松八幡の物見台

こちらも「松」何とかという神社の案内があります。
その奥は、これまた同じく柵のある物見台となっています。
一見すると何でもない光景ですが・・・
この左下がとんでもありません。
後で登場します^^

【16】佐貫城
16 本丸北東の虎口

松天神の物見台も細道なので、そのまま本丸に戻って来ました。
すると、今度は下へカギ形に曲がる虎口があります。
もちろん、この先も見て来ました。

【17】佐貫城
17 本丸北東の堀切

本丸から出た道はグングン下がり・・・
谷底を歩いているようになっていきます。
岩の壁を見ると、人為的に掘られています。
やっぱりこれって里見さんの作品でしょうか?

【18】佐貫城
18 本丸北の曲輪

堀底道を抜けた先には、広く落ち着いた平坦地があります。
どうやら梅園のようですが、イノシシ用の罠が物々しいです。

【19】佐貫城
19 下から見た松八幡

その先も岩壁が高く聳える光景が続きます。
ココが、上に松八幡のある岩の壁です。
天然の地形と思いますが、里見さんの城だと掘ったのかも。
城攻めの大将も兵士に「ここ登れw」とは言わないですよね。
お城の大将は「ここ削れw」と言ったかもしれませんが。

【20】佐貫城
20 城南東の産所谷

最後に堀底道を戻り、虎口に上がらず真っすぐ下ってみました。
その先は城の南東に抜け、段々畑が続く場所に出ました。
地図ではここに「産所谷」と書かれています。
地形的には家臣の屋敷が並んでいそうな感じに見えます。


◆歴史◆

千秋長尾氏により築かれた説があります

『鎌倉大草紙』に、佐貫長尾氏が登場します。
これは、関東管領の名代・長尾氏についての記述です。
長尾氏は上州向井、総州佐貫、越後の三家があると書かれています。
そのため、この地を本拠とした長尾氏が城が築いた可能性があります。
佐貫の長尾氏は、上杉藤景を祖とする千秋長尾家です。
上杉藤景は、扇谷上杉家の祖・上杉顕定の叔父に当たります。
宝治合戦で長尾家の後継者が絶え、養子となり家名を継ぎました。
佐貫に関連するのは、後を継いだ弟の子・長尾氏春です。
長尾氏春は上杉禅秀の右腕として、武蔵守護代を務めました。
しかし、1416年の禅秀の乱で敗れ自害したとされます。
この時代なので、佐貫を領地としても鎌倉にいた可能性があります。

武田義広により築かれた説もあります

応仁年間(1467~69年の間)に、武田義広が築いたとする説もあります。
上総国の武田氏は、1456年頃に武田信長が入国しました。
武田信長は元々は甲斐に居ましたが、居場所を失い古河公方に仕官。
古河公方・足利成氏の命令により、扇谷上杉家の上総国に侵攻。
そして真里谷と庁南に城を築き、次第に勢力を拡大しました。
佐貫は安房・外房への街道が交わり、三浦半島にも海路がある要衝です。
武田義広と武田信長の続柄は不明です。

1537年、小弓公方軍に攻められ落城しました

1534年、カリスマ当主・真里谷恕鑑(武田信清)が世を去りました。
同時期に嫡子・大夫(実名不明)も没し、真里谷信隆が家督を継ぎました。
しかし、真里谷家が従っていた小弓公方・足利義明がこれに反対。
真里谷恕鑑の嫡子・真里谷信応が家督を継ぐべきだと猛プッシュしました。
そのため、真里谷家は真っ二つに割れて家督争いが勃発。
真里谷信隆は、小弓公方と敵対していた後北条家を頼り戦いました。
しかし、真里谷信隆が籠った峰上城は足利義明に攻められ落城。
落ち延びた造海城も落城し、真里谷信隆は武蔵国金沢へ逃れました。
佐貫城は真里谷全芳に預けられ、子の真里谷義信が城主となりました。

1538年、国府台合戦後、里見家と後北条家が争奪戦を繰り返しました

1538年、北条氏綱と小弓公方・足利義明が国府台で激突しました。
家督争いに勝利していた真里谷信応は、小弓公方に味方し参戦。
しかし、足利義明が討死し、小弓公方勢は総崩れとなります。
佐貫城主の真里谷義信も討死します。
その後、後北条家の支援を得た真里谷信隆が椎津城に復帰。
真里谷信応は戦いに敗れ、里見義堯を頼り安房へ逃れました。
里見義堯は、両者の争いで手薄になった上総国南部を制圧しました。
しかし、ここから後北条家との争奪戦が始まります。
後北条軍により古河公方・足利義氏の御所が置かれた時期もあります。
1560年代になると、越後の長尾景虎が毎年のように関東に出陣。
対応に追われた後北条軍は上総で後手を踏み、里見軍が優勢となります。

1564年、第二次国府台合戦で里見軍が敗れました

勢力を拡大した里見義弘は、国府台で後北条軍との決戦に挑みました。
しかし、この戦に敗れた里見家では後北条家に鞍替えする家臣が続出。
この中には、猛将・正木時忠や土岐為頼もいました。
1567年、後北条軍は三船山に陣を置き、里見領に侵攻しました。
しかし、里見軍が北条氏康率いる後北条軍を撃退し形成が逆転。
里見義弘は再び勢力を回復し、一気に下総まで勢力圏を拡大しました。
以後、佐貫城は里見義弘の居城となり、1578年にこの城で没しています。

1579年、加藤信景が城代となります

里見義弘の没後、里見家で家督争いが始まりました。
事の発端は、里見義弘の遺言にありました。
その内容は、里見義頼が安房国、梅王丸が上総国を継ぐというものです。
里見義頼は、子宝に恵まれなかった兄の跡を継ぐことが決まっていました。
梅王丸は、兄・里見義弘が晩年に得た待望の嫡男です。
里見義弘の死後、里見義頼は後北条軍の支援を得て戦を優勢に進めます。
そして1580年には梅王丸を捕らえ、里見家中を掌握しました。
梅王丸が城主だった佐貫城は、その腹心・加藤信景が城代となりました。
一説に、梅王丸の助命を条件に降伏したとされます。

1590年、里見家が上総国を没収されました

豊臣秀吉の小田原征伐に乗じ、里見義康は小弓城を攻めました。
これは豊臣軍に連動したものではなく、里見軍独自の戦です。
当時、里見家では小弓公方の遺児・足利頼純を庇護していました。
小弓城奪還は、小弓公方を再興する目的があったと考えられています。
しかし、これが大名どうしの私闘を禁じた惣無事令違反とされます。
里見義康は上総国と下総国を没収され、安房一国のみに減封されます。
上総国・下総国を含む関東一帯は、徳川家康に与えられました。

江戸時代は佐貫藩の藩庁となりました

徳川家康の家臣・内藤家長が2万石で城主となりました。
内藤家は1622年に、陸奥国磐城平へ移ります。
超高速参勤交代の主人公は、内藤家長の6代の子孫に当たります。
間に養子が3人程いるので、血のつながりはありませんが。

その後、江戸時代を通じて佐貫藩が立藩・廃藩を繰り返します。
最終的には、1869年の版籍奉還により廃城となりました。


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プロフィール

なぽ

Author:なぽ
故郷にはお城があり、小さな頃から何となくお城が好きでした。若い頃から旅が好きなので、旅行ついでに立ち寄るといった感じでした。

しかし、本格的に城をメインに旅を始めるとハマってしまい・・・。今では道無き山まで歩き回るようになりました。もう、殆どビョーキですw

全国津々浦々見てやろう!と意気込んでいましたが、訪ねる基準が年々変化しており、始めた頃に回った地方がかなり手薄になりました。でも、あまりにもマイナー過ぎる城跡まで回るのもどうかと思いつつ、通りすがりに「〇〇城跡→」なんて案内があると、ついつい足が勝手に動いてしまいます。

書き始めるとついアレコレ気になって調べまくり、遅々としてブログが進みません。こうしている間にも訪ねっ放しの城跡がザクザク溜まる一方で・・・。書き方もちょっと考え直さないと、死ぬまでに書ききれないとマジでびびっています。

おっと、またつい長くなりましたが、基本スタンスは「道案内 & 見所案内 & 歴史も!」な欲張りブログを目指しています。ここでお友達を作るつもりはありませんので、ググって出て来てちょっと気になったら読んでやって下さいませ。

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