2013/12/28
鎮西原城/福岡県香春町
鎮西原城は田川農林高校跡地にありました。訪問日は2012年1月1日です。


▲田川農林高校跡
高校ならすぐに見つかる・・・と思ったのが甘かったです。
ナビには田川農林高校が出てこず焦りました

辿り着いてみてその訳を知ったのですが・・・廃校になっていました。

▲すぐ脇に「香春町史跡公園」
正門には立入禁止の赤い文字。
周囲を真新しいフェンスで囲まれていますが、
正門右側に「香春町史跡公園」と貼ってありました。
しかし、、、立入禁止の公園ってw

▲説明板
更にフェンス沿いに右へ進み、
学校の敷地が終わる辺りに説明板がありました。
これを見つけずに立ち去る一歩手前でした


▲鎮西原為朝屋敷の石碑
説明板のすぐ脇には目立たない石碑が1つあります。
文字はかなり薄くなっていますが「鎮西原為朝屋敷」と彫られています。
遺構は無くても、こういうのがあると来て良かったと思います^-^
◆歴史◆
1152年、源為義の8男・源為朝が館を築きました。
1154年、阿蘇忠国を後見人に嫡子・鶴王丸を残して自身は上洛。
1398年、8代目・公朝の時に大内盛見が攻め寄せたため降伏。
かなり脚色はあると思いますが、
源為朝のざっくりとした人物像は以下の通りです。
源為義の8男で、八幡太郎・源義家の曾孫にあたります。
幼少より力が強く、剛弓の名手として有名でした。
気性が荒かったため、
持て余した父・源為義により13歳の時に追放されました。
追放された先の九州でも豪腕を発揮し、
たった3年で九州全土を平定。
中坊くらいの年齢で凄い(・∀・)!
自ら「鎮西総追捕使」を名乗って暴れていました。
ですが、源為朝をよく思わない者が都に通報し、
朝廷から出頭を命じられました。
何度も出頭命令を無視する内に
父・源為義が役職を解かれてしまったためやむなく上京。
そこで、崇徳上皇と後白河天皇が争った保元の乱に巻き込まれました。
父・源為義は源為朝を味方(崇徳上皇方)に引き込み、大活躍しました。
兄・源義朝と対峙した時にわざと外して兜を射抜き、
義朝軍が撤退した話は有名です。
しかし、乱は後白河天皇方の勝利に終わりました。
父の他、源義朝以外の兄弟は皆処刑されてしまいました。
源為朝は後白河天皇が並外れた武勇を惜しんだため、
減刑して伊豆大島へ流されました。
この時に、今後は剛弓が引けないよう肘の筋を抜かれています。
ところが、源為朝は伊豆大島でも大暴れし、
またたく間に伊豆大島を支配しました。
さらに周辺の島々も次々と従えました。
これがまた都に通報されると、朝廷は追討軍を派遣。
源為朝は剛弓で先頭の船を沈めましたが、
これ以上の殺生は無用と考え、自ら命を絶ちました。
これが日本最初の切腹だと言われています。
所在地:福岡県田川郡香春町中津原
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コメント
無題
2020/04/16 11:40 by hana-batake3 URL 編集