2013/12/28
鬼ヶ城/福岡県香春町
鬼ヶ城は香春岳一ノ岳の東側中腹にありました。訪問日は2012年1月1日です。

▲香春岳一ノ岳
鬼ヶ城があった香春岳一ノ岳は、
石灰岩採取のため上半分がスッパリ無くなっています。
炭坑節にも出てくる山なんですけどね・・・
当地に行けばどこからでも見える、とても目立つ山です。
ここは今でも交通の要衝で、国道322号と国道201号が交差しています。
国道322号は小倉から田川を通って甘木、
国道201号は行橋から飯塚を通って福岡を結びます。

▲須佐神社

▲登城口
須佐神社は香春中学校の裏にあります。
山への入口がビッシリ石垣で固められていて、
お城の入口感がプンプンします^-^
登城路は神社社殿の左脇に写真のように案内があります。

▲案内板
神社の石垣にちゃんとした説明板がありますが、
城域の入口にも略図があります。
これはすごく助かります。
そんなに複雑な城跡ではないのですが、
今どこに居てどっちに何があるのか。
それがわかると迷わずにサクサク見て回れるので


▲三ノ丸

▲ニノ丸
最初に辿り着くのが三ノ丸です。
三ノ丸は椿が植えられているのか雑木林になっているのか・・・
削平されたスペースがあるのがよくわかるという感じです。
ニノ丸は案内板では竹のイラストが描かれていましたが・・・
伐採された竹が山積みになっていました

どちらも土塁や空堀、堀切といった構造物は見当たりませんでした。

▲一ノ丸
更に登ると一ノ丸に辿り着きます。
ここも広いスペースがあるだけで、知らなければ城跡だとは気付かないかも。
ただ、ウワサ通り瓦の破片がたくさん落ちていました。

▲天守台

▲天守台からの眺め
更に北に少し登ると、天守台があります。
土を盛った感じがそれっぽく見えますね。
昔はここに物見の櫓でも建てたのでしょうか。
その名の通り、とても見晴らしがよい所です。
写真は国道322号小倉方面を撮ったものです。
◆歴史◆
香春岳は昔から交通の要衝で、
山頂には室町時代に城が築かれていました。
鬼ヶ城はその中腹にありますが、
当時山頂の城が使われていたのかどうかはわかりません。
何せ、調べようとすると両者は1つの城として書かれているものばかりですので・・・
成り立ちも位置も違うので、おいらは敢えて別の城として区別します。
1602年、関ヶ原合戦後、豊前に入封した細川忠興の弟・細川孝之が築き居城としました。
香春は豊前・豊後・筑前への道が交錯する重要なポイントです。
ここに新たに拠点を構えたということは・・・
筑前の黒田氏との争いに備えたのかもしれません。
関ヶ原の戦いでは豊臣恩顧の大名でありながら東軍についた細川忠興と黒田長政。
戦での功績により、両家とも加増移封しました。
細川忠興は丹後から豊前へ。
黒田長政は豊前から筑前へ。
この時に両家の間にトラブルが発生します。
細川忠興は「武家の作法」として、
丹後では年貢を徴収せずに豊前にやって来ました。
ところが黒田長政は取る物は取ってけ、
という感じで年貢を徴収して筑前へ移りました。
困ったのは細川忠興。
このままではその年の収入が無くなります。
細川忠興は黒田長政に年貢の返還を迫りましたが、
黒田長政はと突っぱねました。
そのため両家は国境に城を幾つも構え、
今にも戦が始まりそうな状況になりました。
この状況を知った徳川家康は仲裁し、
長政が忠興に年貢を返すことになったそうです。
ただ、この争いはその後も尾を引きました。
黒田領から細川領への農民の脱走が後を絶たなかったのです。
黒田長政が検地を実施した結果、石高が増して増税となったためです。
通常は逃亡してきた農民は元の領地に追い返すのですが、
細川忠興は歓迎しました。
そして彼らを新田開発や土木工事などの人足に充てました。
当時は新田開発が盛んだったので、
どの大名家も田畑を耕す農民を必要としていました。
強欲な領主は今も昔も嫌われるのですねw
1615年、元和の一国一城令により、鬼ヶ城は廃城となりました。
所在地:福岡県田川郡香春町香春
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