2013/12/24
久津尾崎城/福岡県行橋市
久津尾崎城は海沿いの山にありました。訪問日は2012年1月1日です。
先に訪れた箕島城からはとても近いです。
海沿いを走っていると、それらしき所に神社が見えました。
それが松山神社だと思って突撃しましたが「龍日売神社」の文字が・・・
正月早々、迷子スキル2発目発動となりましたwww

▲登城口
事前に登録していたiPhoneの地図を頼りに細道を辿ると、
民家と民家の間に小さな鳥居が!!
その奥にあった案内板から、そこが松山神社だとわかりました。
お城のあった山は良く見えるのですが、ある意味攻め難いですね



▲松山神社の説明板
その説明板を見ると、松山神社の成り立ちや、
大坂城の石垣の事などが書かれていました。
わざわざ印まで付けて、どこに使われたのか追跡出来るなんてスゴイ!
・・・てか、かな~りちょっぴりなんですね。
しかも、城跡であったことについては記述ナシ(-_-;)。
箕島城同様ここも超マイナーなんですね。


▲城跡は岩だらけ
登城路は階段が付けられてはいるものの、かなり細くて険しい道です。
少人数で守るには良いのかなと思いました。
途中には巨岩がゴロゴロしており、
石を切り出そうという発想はなるほどと思いました。
中にはまさに切り出そうと、ノミ跡が残っている岩もありました。


▲主郭
急坂を登り切ると、綺麗に削平された広場があります。
その真ん中で段差があり、
上段の広場の真ん中にトタン屋根の小さな祠がありました。
◆歴史◆
貞和年間(1345~50年の間)、本郷顕吉により城が築かれました。
本郷顕吉は後醍醐天皇の皇子・懐良親王の九州下向に同行した北畠信親の子です。
北畠信親は筑後で戦死しましたが、本郷顕吉は姓を改め、
代々沓尾を本拠としました。
1549年、宇留津城主・賀来外記入道と領地の境界を巡って戦となりました。
この戦で城は攻め落とされ、城主・本郷顕季は自刃し廃城となりました。
1620年、大坂城普請のため、細川忠興の命で石が切り出されて、
海路大坂まで運ばれました。
この石垣は現在も残っており、登城口にある案内板にその写真が載っています。
明治20年代、松山城主・杉一族を祀るため、城跡に松山神社が創建されました。
所在地:福岡県行橋市沓尾(松山神社)
福岡県の城跡/なぽのホームページを表示 |
コメント