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松倉城/京都府京丹後市

松倉城は、一般的には「久美浜城」と紹介されています。
訪問日は2022年8月1日です。

【位置】松倉城
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城跡へは、民家脇の赤い鳥居の所から登れます。
クルマは海沿いに少し西へ進んだ所に停められます。
地図では城跡に向かって西から道が描かれていますが・・・
そちらの道は訪問前に認識しておらず、見ていませんあせる
とは言え、真夏でも草丈は低くコバエも居なくて快適に登れます。
尾根先端に四阿があり、あとは段々に曲輪が連なります。
最上段の山頂が主郭で、久美浜湾を一望出来ます。

【1】松倉城
【1】久美浜小学校

城跡に登る前にまずは小学校から。
ここは城の麓にあった久美浜代官所の跡地です。
代官所が出来たのは、松倉城廃城からだいぶ経った江戸時代。
まぁでも、城主様の居館がありそうな場所ではあります。
明治以降は久美浜懸庁となり、この辺り一帯の中心でした。

【2】松倉城
【2】堀跡

・・・ということで、遺構ハッケソヾ(*´∀`*)ノ
小学校の真正面の橋は「陣屋橋」という名前です。

【3】松倉城
【3】登城口の鳥居

さて、陣屋跡に続いて本命の城跡へ。
小学校から海沿いに進むと、民家脇に赤い鳥居があります。
城跡へはここから登れます。

【4】松倉城
【4】鳥居と案内

小学校のグラウンド脇を奥へ進むと、再び鳥居が現れます。
その脇に「松倉城址」と「城跡公園」の案内があります。
順番が逆、ですか?w
ここは「久美浜城」と紹介されますが、現地の表記は全て「松倉城」です。
私は現地での表記を採用するので、「松倉城」として紹介します。
なぜ皆様「久美浜城」と書くんだろう?と思いましたが・・・
某大聖典(今更ですが『日本城郭大系』デス)がそう書いているからのようです。

【5】松倉城
【5】一番下の曲輪

赤鳥居の所からジグザグに山道を登り、最初に着く曲輪です。
四阿があって海側が開け、いかにも展望台的な感じです。
往時もきっと、こんな役割だったのかもしれません。

【6】松倉城
【6】1つ上の曲輪へ

登城はまだ始まったばかり!
次!
と見上げると、既に赤い鳥居が見えています。
神社は下から2つ目の曲輪っぽいです。

【7】松倉城
【7】城山稲荷神社

ということで、城山稲荷神社です。
鳥居赤いですし。
でも、数が少ない・・・

【8】松倉城
【8】虎口

ココは尾根に曲輪を1列に並べたシンプルな縄張りです。
派手好きな私は、あまり派手な遺構は期待していませんでした。
なので、ちょっとした「らしさ」でも過剰に反応してしまいますラブラブ

【9】松倉城
【9】切岸

尾根に曲輪を1列に並べたシンプルな縄張り・・・
なので、こういう光景が数回続きます。

【10】松倉城
【10】1つ上の段

でしょw

【11】松倉城
【11】連なる曲輪

規模が小さく構造がシンプルなので、こういう光景が拝めます。
わかりやすくてちょっと嬉しいです^^

【12】松倉城
【12】主郭手前

それまでの段曲輪は小さなものでしたが、主郭手前は長いです。
城の最重要部の手前ですからね。
ここは一番厳重にしなければいけない場所です。

【13】松倉城
【13】振り返った光景

まぁでも、構造自体がシンプルですからね。
一番下の曲輪から主郭まで、まっすぐ一本道です。

【14】松倉城
【14】主郭

辿り着いた最上部が主郭です。
真ん中には立派な城址碑があります。
予想に反して空が開けていますが・・・
周りに住宅が建ち並んでいるので、空の旅はナシです。

【15】松倉城
【15】城址碑と久美浜湾

一番下の曲輪からも眺めは良かったですが、主郭はもっと良いです。



◆歴史◆

一色家臣・松倉氏の城でした

築城年代は不明ですが、松倉氏の城でした。
戦国時代は松倉周防守が城主を務めました。
1576年、細川藤孝が丹後に攻め込みますが、攻めきれず撤退。
丹後の一色義道は、織田軍の侵攻に抵抗しました。
1577年、今度は明智光秀の助力を得て再度侵攻。
一色義道は抵抗しますが、本拠の建部山城が陥落し討死しました。
嫡男・一色義定は抵抗を続けましたが、細川藤孝が縁組を持ちかけ和睦。
以後、一色義定は明智光秀の配下として丹後北半国の守護となります。

1582年、細川軍に攻められ落城しました

本能寺の変の際、一色義定は明智光秀に従いました。
しかし、同僚の細川藤孝はこのタイミングで隠居し、動きませんでした。
山崎の戦で明智光秀が討たれると、細川忠興は羽柴軍に協力します。
一色義定は、宮津城に呼び出されて謀殺されました。
細川軍は北丹後の一色家残党を討伐。
松井康之が松倉城を攻め、城主・松倉周防守は討死しました。
この時の功により、松井康之が1万3千石で城主となりました。

1600年、廃城となりました

関ヶ原の戦で、松井康之は細川領の飛び地・豊後国の木付城に居ました。
細川家は東軍に属し、復興を目指す西軍・大友吉統に攻められました。
大友吉統は旧臣を集め勢いがありましたが、松井康之は猛攻を凌ぎます。
その後、黒田如水の軍勢と合流して石垣原の戦で大友軍を撃破します。
ただ、そのため居城の松倉城は西軍に攻められ焼失します。
戦後、細川家は豊前へ移封となり、松井康之は木付城の城主となります。
主が不在となった松倉城は、修復されずそのまま廃城となりました。

1735年、久美浜代官所が置かれました

1666年、宮津藩の京極家が改易となりました。
以後、久美浜は天領になったり宮津藩領になったりを繰り返します。
1735年、代官の海上弥兵衛が湊宮船見番所を久美浜に移しました。
湊宮船見番所は、久美浜湾の入口にありました。
といっても、当時の久美浜湾は海とはつながっていない潟湖でしたが。
以後、久美浜の代官所は、北丹後統治の中心地となります。

1868年、久美浜懸庁となります

明治維新後、廃藩置県により久美浜懸が設置されました。
久美浜代官所が、その懸庁となります。
久美浜懸は丹後、丹波、但馬、播磨、美作の幕府領・旗本領を管轄。
その管轄は926ヶ村23万石に及びました。
1870年には手狭だった庁舎を新築しましたが・・・
1871年、丹波・丹後・但馬の11県が統合して豊岡県が生まれました。
久美浜懸は豊岡県に統合されたため、廃止となりました。


所在地:京都府京丹後市久美浜町 GPSログダウンロードページ
京都府の城跡/なぽのホームページを表示

コメント

無題

伊東48城を調べていたらなぽさんのブログにあたりまして、アクティブに調べて行動する姿は感動を越えて驚嘆しています。結構城跡は学校敷地や病院等になっているところがありますよね。学校だと狙い目は長期休暇の平日ですね。学校と関わりのある仕事をしていますが、たぶんお願いしたら見せていただけるんじゃないでしょうか?さすがに休日は締まっていて無理でしょうけど。宮崎県の石塚城や坪谷城の探索は感銘を受けました。これからも頑張ってくださいね。

Re:無題

>ひろさん
城跡の何かを掲示してる所なら、多分すんなり見学させてもらえると思います。宮崎は年末休みだったので・・・。言わなければ始まりませんが、ダメと言われればそれまでなので、基本的にはダメ元の期待半々ですね。
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プロフィール

なぽ

Author:なぽ
故郷にはお城があり、小さな頃から何となくお城が好きでした。若い頃から旅が好きなので、旅行ついでに立ち寄るといった感じでした。

しかし、本格的に城をメインに旅を始めるとハマってしまい・・・。今では道無き山まで歩き回るようになりました。もう、殆どビョーキですw

全国津々浦々見てやろう!と意気込んでいましたが、訪ねる基準が年々変化しており、始めた頃に回った地方がかなり手薄になりました。でも、あまりにもマイナー過ぎる城跡まで回るのもどうかと思いつつ、通りすがりに「〇〇城跡→」なんて案内があると、ついつい足が勝手に動いてしまいます。

書き始めるとついアレコレ気になって調べまくり、遅々としてブログが進みません。こうしている間にも訪ねっ放しの城跡がザクザク溜まる一方で・・・。書き方もちょっと考え直さないと、死ぬまでに書ききれないとマジでびびっています。

おっと、またつい長くなりましたが、基本スタンスは「道案内 & 見所案内 & 歴史も!」な欲張りブログを目指しています。ここでお友達を作るつもりはありませんので、ググって出て来てちょっと気になったら読んでやって下さいませ。

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