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木戸城/群馬県館林市

木戸城跡には赤城神社があります。
訪問日は2012年5月26日。

木戸城/赤城神社
▲赤城神社

木戸城は館林城の北西にありました。城跡には赤城神社があります。遺構らしきものは見当たらず、ここも何も知らなければただの小さな神社です。本当に何も無いですねあせる

木戸城/神社裏の土手
▲神社裏の土手

神社の裏手に回ると土塁が~ヽ(´ー`)ノというのはぬか喜びでした。多分。すぐ裏を矢場川が流れており、その土手でした。・・・土塁かもしれませんがw


◆歴史◆

木戸城が築かれた時代はわかりません。一時は下野国守護まで務めた木戸氏の本拠がありました。群馬県なので、昔は「上野国」のハズですが・・・そこに下野国守護の本拠が・・・?と、ギモンに思うのも無理はありません。江戸時代まで木戸郷は下野国に属していました。

1664年、当時館林藩主だった徳川綱吉が、洪水対策として矢場川の流路を変更しました。矢場川はそんなに大きな川ではありませんが、上野国と下野国の国境だったのです。ということで、江戸時代以前は下野国だったのです。
・・・早速脱線あせる

木戸氏ですが、出自は尾張国・熱田神宮の宮司だった藤原氏の子孫・野田氏の一族だそうです。野田氏は鎌倉時代始め頃までに源姓足利氏に仕えるようになっていました。そして鎌倉時代末期、足利尊氏の北条時行討伐に従って関東に移り、鎌倉府の奉公衆となりました。その野田氏の庶流が足利荘木戸郷を与えられ、木戸姓を名乗ったのが始まりです。

1380年に始まった小山義政の乱で、(山内)上杉憲方・(犬懸)上杉朝宗とともに木戸法季が活躍。木戸氏は鎌倉公方の重臣でしたが上杉氏とも姻戚があり、上杉憲方の母親が木戸氏の出だそうです。乱を鎮圧した功により、木戸法季は下野国守護に任命されました。

小山義政は自害したのですが、その嫡男・若犬丸はゲリラ戦術で抵抗を続けました。何度も若犬丸を取り逃がした責任を問われ、木戸法季は下野国守護を解任されました。木戸法季の後、やはり乱の鎮圧に功のあった小山氏の庶流・結城基光が下野守護となりました。・・・若犬丸はその後11年もの間抵抗し続けましたがw

木戸氏の主流はその後も鎌倉公方~古河公方の側近として仕えています。1528年、木戸兵部少輔が足利晴氏の元服式に「御荷用の人数」として記載されています。

1545~55年頃、木戸左近大夫将監は足利晴氏・藤氏父子の使者として小山氏を訪ねています。

木戸氏には古河公方と敵対していた山内上杉家~上杉謙信に仕えた庶流もありました。江戸城で太田道灌の客将となっていた木戸大膳大夫範実の家系です。木戸範実は木戸持季の弟とされ、歌人としても有名でした。その子・木戸忠朝は羽生城を与えられ、1574年まで羽生城で後北条氏に抵抗を続けました。木戸氏がいつまで木戸郷を本拠としていたのかはわかりませんでしたあせる


所在地:群馬県館林市木戸町

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Author:なぽ
故郷にはお城があり、小さな頃から何となくお城が好きでした。若い頃から旅が好きなので、旅行ついでに立ち寄るといった感じでした。

しかし、本格的に城をメインに旅を始めるとハマってしまい・・・。今では道無き山まで歩き回るようになりました。もう、殆どビョーキですw

全国津々浦々見てやろう!と意気込んでいましたが、訪ねる基準が年々変化しており、始めた頃に回った地方がかなり手薄になりました。でも、あまりにもマイナー過ぎる城跡まで回るのもどうかと思いつつ、通りすがりに「〇〇城跡→」なんて案内があると、ついつい足が勝手に動いてしまいます。

書き始めるとついアレコレ気になって調べまくり、遅々としてブログが進みません。こうしている間にも訪ねっ放しの城跡がザクザク溜まる一方で・・・。書き方もちょっと考え直さないと、死ぬまでに書ききれないとマジでびびっています。

おっと、またつい長くなりましたが、基本スタンスは「道案内 & 見所案内 & 歴史も!」な欲張りブログを目指しています。ここでお友達を作るつもりはありませんので、ググって出て来てちょっと気になったら読んでやって下さいませ。

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