2013/12/08
竜ヶ谷城/埼玉県毛呂山町
竜ヶ谷城(毛呂山)は、鶴ヶ島ゴルフ倶楽部の中にあります。訪問日は2013年11月30日です。
埼玉には私が知る限り、3つの「龍(竜)ヶ谷城」があります。今回はその3発め、「毛呂山」です。

▲道沿いにある雷電神社の案内

▲雷電神社への入口
竜ヶ谷城へは城跡への案内が全く無いので、雷電神社を目指します。雷電神社は竜ヶ谷城の主郭跡にあります。ここから先はゴルフ場の敷地だよな~なんてバイクをここに置いて行きましたが・・・乗ったまま進んでも良かったみたいです。先に書いちゃうと、雷電神社の社務所に駐車場があったので。

▲道の真正面にある警告看板

▲道を遮る鉄のゲート
でも、小心者の私を十分ビビらせたのが上の2つ。1つは、道の途中にあった看板。不法侵入って・・・確かにゴルフ場の中を通るしなぁ~そして、敷地入口にある鉄のゲート。錠こそ掛かっていませんが、ただ手で押しただけでは開かないようになっています。・・・だったらこんな所にゴルフ場造るなよ~wと心の中で呟きながら、雷電神社に行くんだ文句あっか~!ってな感じでゲートを開けます。目の前でプレーしてる人居たので「すみませ~ん」みたいな感じで入りましたけど


▲ゲート左側には雷電神社への案内があります
ゲートを空けて左側を見ると、雷電神社への案内矢印がすぐに右を指していました。でも、車の方はまっすぐ進んで、右へ行ける所は右へ曲がって下さい。ゴルフ場の敷地内ではありますが、これれっきとした県道なんです^-^;

▲雷電神社社務所のすぐ下にある鳥居
麓にバイクを置いて徒歩だった私は、矢印の指し示すがままに進みました。最初は緩かった坂道でしたが、次第にキツクなって階段に。山でも階段登るのはしんどいもので・・・大した高さではありませんでしたが、結構息上がってました。そこで現れた写真の鳥居。おし!着いた!と喜んだのも束の間。建物はどう見ても社殿ではなく、しかもその脇に更に上に続く階段が。HPあとちょっとしか無いよ・・・w

▲雷電神社社殿
しかし、トドメの階段は短くて、すぐに社殿が見えてきました。ついに主郭に到着です。今まで見てきた山城と同じように、主郭の中でも段差がありました。社殿のある所が一段高くなっています。
ただ、この城全体に言えることですが、他の山城で見られるような堀切や土塁がありません。あるのは、明確に削平されて区画された郭だけです。何も無いよりはいいんですけどね。

▲主郭からの眺め
そして、山城での楽しみの一つはこの眺めです。木が生い茂っていて全く眺望が利かない山城もありますが・・・遠くまで見渡していると、使い果たしたHPが一気に満タンに回復しますヽ(´ー`)ノ
◆歴史◆
竜ヶ谷山城も築城年代はわかっていません。しかも史料にはそれとハッキリ記されたものも無いそうで・・・
竜ヶ谷城は「毛呂山城」とも呼ばれ、在地領主・毛呂氏の城でした。毛呂氏は平安時代に藤原季清が毛呂郷に移り、毛呂姓を称したのが始まりだそうです。毛呂季清の子・太郎季光は源頼朝に仕え、奥州合戦などで大活躍。『吾妻鏡』では「心操尤穏便也、相叶賢慮歟」と賞賛され、頼朝側近として仕えました。頼朝没後は表立った事蹟は無く、うまく北条執権家による粛清をかわしたようです。
室町時代になると、毛呂顕繁は山内上杉家に仕えていました。山内上杉家と扇谷上杉家が争った長享の乱では、立河原の戦い等で活躍しました。
1524年、北条氏綱が扇谷上杉家の江戸城を攻め落としました。この時、毛呂顕繁はかなり早い時期から後北条氏に味方をしたようです。北条氏綱の調略が良かったのか、扇谷上杉朝興と対立していたのか、それはわかりません。
これに対し扇谷上杉朝興は、山内上杉憲房や武田信虎を誘い毛呂氏に報復攻撃を仕掛けました。上杉連合軍は毛呂氏の「要害」を包囲し、北条氏綱は毛呂氏救援の兵を出しました。結局この戦いは決着がつかず、和議により終結しました。
・・・色々調べたのですが、この和議の条件がイマイチよくわかりませんでした。毛呂氏が何かを手放すことがその条件だったようですが・・・所領だったのか、この「要害」だったのか。
その後の歴史から想像すると、上杉連合軍が手を焼いたこの「要害」放棄のような気がします。城を包囲しながら落城していないので、上杉側はそれ程強い事は言えなかった筈です。だとすれば、まずは外堀を埋めて、日を改めて攻め滅ぼそうという事になったと想像します。
竜ヶ谷城で防御遺構が見つからなかったのが、この和議によるものであったとしたら・・・上杉連合軍が和議の後、城としての機能を徹底的に破壊したのかもしれませんね。
所在地:埼玉県入間郡毛呂山町阿諏訪
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