2013/12/08
龍ヶ谷城/埼玉県皆野町
龍ヶ谷城跡(千馬山)は皆野長瀞ICの南東にあります。訪問日は2013年11月16日です。
埼玉には私が知る限り、3つの「龍(竜)ヶ谷城」があります。今回はその1発めです。

▲県道脇からの遠景(朝もやで見えませんT_T)
夜明け前に現地に着いて、夜明けとともに城攻めを開始する。それが私の城攻めの流儀です。でも、この時期って朝もやが出て視界が悪くなるんですよね。・・・ということで、遠景はもやっとした感じになりました


▲その脇にある説明板

▲縄張図(拡大)
で、上の写真の赤丸で囲んだ所に、立派な説明板があります。何と縄張図まで描かれた豪華なものです。これ見つけただけで帰ってもよさそうヽ(´ー`)ノ・・・帰りませんけどw
縄張図の下に「千鳥山」って書いてあったのが気になりました。もしかしてみんなして間違えているのかなんて思いましたが・・・山好きさんは見向きもしない山のようで、城好きさんのブログばかり。誰も「千鳥山」とは書いてないようなので、私も皆さんと同じ表記にさせて頂きました。
さて、この城跡の難しい所は登城口がわかりづらいコト。皆さんどこから登るのかとても苦労されているようでした。そんな私もご他聞に漏れず・・・
よそ様のブログに写真付きで書いてあった登城口は、ほんの30m程で行き止まり。あるのは急な斜面とビッシリ密生した藪ばかり。・・・マジでここ登ったの?という感じでした。
何度も案内板を見に戻ってはそれらしい所をウロウロ。畑仕事をしていたおじ様の目つきもダンダン怪しげに。

▲登城口

▲登城口を示す案内
小一時間ばかり徘徊して見つけた登城口が↑です。道端にあったB5位の案内板を、目を皿にして見つけましたw

▲祠の方へ進みます

▲登城路
さて、やっと見つけた登城口ですが、30m程進んだ所で民家が行く手を遮ります。「龍ヶ谷城跡」って書いてあったじゃん・・・と思いつつ、道端に文字が消えた案内らしき道標が。うっすらと「竜」の字が見えたような、見えないような・・・
そちらに目をやると、祠の脇に人の通った跡らしきものがありました。とりあえずそちらへ進むことに。すると、祠の陰に山の中へ進む道が現れました。これも登城口がわかりにくい原因かもしれませんね。

▲堀切

▲石積み
登城路はゆったりとした斜面をまっすぐ進む感じでした。そんな里山的な道を15分程登ると、ちょっと人工的な感じのする所がありました。山道を直角に遮るような窪み・・・


▲主郭の入口
そして、登城口から20分で初めて文字の書かれた板が。ここが主郭への入口です。あの民家の所にも1枚あるだけで随分わかりやすくなるのに


▲主郭の説明板

▲主郭
主郭にはまた立派な説明板がありました。朝の光と木の影でコントラストがバリバリ・・・写真だと明るい所と暗い所がメリハリつきすぎて見えず。・・・ということで、この説明板を見たい方は登って下さい(笑)
主郭はとても狭く、せいぜい小屋が1つ建てば良い位の広さしかありませんでした。とても兵を篭めて戦うような仕様ではなさそうです。木を切れば視界はとても良さそうなので、ここも狼煙台として使われたようですね。
◆歴史◆
龍ヶ谷城は戦国時代に藤田重利により築かれたとされています。藤田氏は武蔵七党の猪股党の出で、平安時代末頃に藤田郷を与えられたのが始まりです。
室町時代には武蔵守護代となった大石家とも姻戚関係にありました。1546年の河越夜戦で主家・上杉家が没落すると、ともに後北条家の軍門に降りました。
この時の藤田家当主が藤田重利です。藤田重利は後北条家への恭順の証として、北条氏邦を養子に迎えて家督を継がせています。また、軍事拠点であった花園城や天神山城なども明け渡し、自身は用土城へ移りました。さらに、後北条家の上野国侵攻では先鋒を務めて大活躍。北条氏康から「康邦」の名を与えられました。
終始反抗的だった大石家とは大違い、、、と思いきや、藤田康邦の子は反発しました。藤田康邦の嫡男・藤田重連は、あまりに反抗的だったせいか沼田城で毒殺されてしまいました。次男・信吉は敵対する武田信玄に仕えるようになり、武田家滅亡後は上杉景勝に仕えました。
龍ヶ谷城は藤田重利により築かれ、後北条家の命令で更に改修が加えられました。北条氏邦は鉢形城をメインの城としていました。藤田氏の城は、鉢形城から西に向かう街道の山にいくつも築かれていました。その先にあるのが甲斐国です。
武田信玄と後北条家は、西上野や秩父でも小競り合いを繰り返していました。土豪どうしの争いでは拠点として使われた城も、時代とともに用途を変えたようですね。
所在地:埼玉県秩父郡皆野町三沢
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