2013/12/15
深沢城/群馬県桐生市
深沢城跡には正円寺があります。訪問日は2012年5月26日です。

▲正円寺
道が細くて分かりづらいので、まずは城跡にある正円寺を目指します。やっと見つけたのですが、、、あんまり「お寺」という感じがしません。古い建物だというのは分かるんですけどね。櫓風の左の建物、こういうの大好きです


▲説明板 (図だけ拡大)
ここかな?と確かめようと周りをキョロキョロしていたらありましたヽ(´ー`)ノ場所はちゃんと合っていたようです^-^周りをお墓が埋め尽くして、立派な山門がある、という「お寺」は固定観念でした


▲本丸を見下ろす
お寺の前の広場が二の丸で、そこから見下ろした空き地が本丸跡です。二の丸から本丸を見下ろすなんて、変わった造りですねw後でGoogle Mapの等高線をジーっと眺めてみましたが・・・城域はもっとずっと広かったのかな?と想像しました。周囲を急峻な地形に囲まれているので、南東と南西の平場も曲輪なら、本丸の位置も納得できます。

▲本丸跡の碑
本丸の草っぱらに足を踏み入れると何やら小さな石碑らしきものが・・・近づいて見ると、「本丸」と書かれていました。シンプルにして明快。あまり手を加えていないのも史跡保存のためなのだろうと思います^-^

▲本丸を囲む堀跡
この本丸は周囲を浅い堀に囲まれています。昔はもっと深かったのでしょうが・・・最終防衛地点として、周囲と隔絶した結果が二の丸より低い本丸となったのかもしれませんね。
◆歴史◆
深沢城は永禄年間(1558~70年の間)に築かれたとされます。城主は黒川郷士の阿久沢氏で、平安時代から同地を支配していたようです。
阿久沢氏は源義家に討伐された安部宗任の家臣の末裔を称していたようですが・・・江戸幕府には桃井氏の庶流と報告しています。桃井氏は源姓足利氏から平安時代に分かれた庶流です。
阿久沢氏は小勢力であったため、その時々で優勢な大勢力に味方して生き延びてきました。大勢力も阿久沢氏を滅ぼせない事情があったようで・・・
1569年、北条氏政は上杉謙信と同盟を結びました。武田信玄は1560年から駿河を攻めるようになり、後北条家は今川家の援軍として戦いました。また、1566年には武田軍が西上野に進出し、上杉家にとっても手強い敵となっていました。この同盟のためには厩橋(前橋)と越後を南北へ行き来する必要があるのですが・・・当時、箕輪城を武田軍が抑えていたため、厩橋と沼田の間の往来はままなりませんでした。
そこで迂回ルートとして浮上したのが、赤城山の東麓を通る「根利道」でした。この「根利道」に精通し、権益を握っていたのが阿久沢氏でした。現在は県道62号として整備されていますが・・・当時は阿久沢氏の案内無しでは無事に通ることすら出来ませんでした。
この特殊な事情が阿久沢氏の命運を握ったのが、1574年の上杉謙信による黒川谷攻めです。上杉謙信は阿久沢氏の案内で根利道を通り、黒川谷を攻めました。この時、謙信は阿久沢氏の挙動に不信を抱きつつも討たず、家臣を置いて監視させました。謙信の気性なら、小領主など虫けらのように殺してしまうのに、です。この時の不信感は当たっていて、阿久沢氏は後北条氏に通じていました。
その後、後北条氏は豊臣秀吉により滅ぼされますが、阿久沢氏は帰農して家名を保ちました。後に城地に天台宗・正円寺が築かれ、阿久沢氏代々の菩提寺となりました。
所在地:群馬県桐生市黒保根町宿廻(正円寺)
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