2013/12/01
膳城/群馬県前橋市
膳城跡は、住宅街の中にある城跡です。訪問日は2012年5月26日です。
もっとずっと昔だと思ったのですが・・・あれからたくさん城跡巡ったせいでしょうか


▲入口にある城址標柱
膳城は、偶然通りかかって見て来ました。当時巡るプラン立てた時には、そこに城跡があるなんて知らなかったので。確か近くの山上城跡へ向かう途中、案内板があって吸い寄せられたような気がします。それでお城の前に着いてみると、道からいい感じの城跡が見えて感動した記憶があります。写真の城址標柱は、城跡の入口にありました。

▲本丸
その城址標柱の入口から入ると、ちょっとした広場に出ます。いきなりですが、本丸です


▲城址碑と説明板
本丸の奥の方には、立派な城址碑と説明板があります。何にも無い城跡だとこれだけで満足してしまいますが・・・本番はこれから


▲説明板の縄張図 (拡大図)
説明板にはとても


▲空堀
本丸の周囲は空堀がしっかり残っています。曲輪と曲輪の間を深さ3m程の空堀が縦横に巡っていてスゴイ!なんて思ったのですが・・・かなりしっかり残っていると思ったものの、ほんの一部分だったんですね。それでもとても見応えのある城跡でした

◆歴史◆(かなり想像入ってます)
膳城は15世紀中ごろまでに善氏(のち膳氏)により築かれたと考えられています。膳氏は藤原秀郷の末裔とされていますが、、、藤姓足利氏とも関係あるかも?
古河公方と上杉氏が争った享徳の乱の頃
南隣の古河公方配下・赤堀氏により攻め落とされました。
上杉方であった膳信濃入道は城を逃れました。
1458年、岩松氏が古河公方→上杉方に転じます。
1466年、桐生氏も古河公方→上杉方となります。
この頃は岩松氏(横瀬氏)と桐生氏は連携することが多く、争いは無かったようです。
山内上杉氏と扇谷上杉氏が争った長享の乱の頃、善三河守は横瀬業繁が奪回した膳城に戻ります。
1560年、由良氏(横瀬氏が改姓)に従い長尾景虎(上杉謙信)に降りました。
1566年、由良氏が上杉→後北条方に転じます。
1570年、桐生氏は跡継ぎが絶えたため、佐野氏より養子を迎えました。由良氏と桐生氏は、この頃から灌漑用水をめぐって対立するようになります。
1572年、膳城主・膳宗次は、上杉謙信の下野国・小俣城攻めに参加して討死しました。膳宗次の子・春松丸が跡を継ぎましたが、小俣城の後北条軍により膳城は落城。春松丸は厩橋城へ逃れ、膳氏は没落しました。この年、由良氏は桐生城を攻め落として桐生氏を滅ぼしました。
1574年、由良氏の金山城が上杉謙信に攻められました。膳城と山上城は上杉軍に占拠され、羽生城の木戸忠朝・菅原為繁が入りました。
1578年、上杉謙信死去。後北条氏が膳城を攻め、河田備前守が城主となりました。 厩橋城の北条高広は上杉→後北条氏に寝返りました。
1580年、厩橋城を制圧した武田勝頼は大胡城・山上城など近隣の城も攻略しました。攻略後、武田勝頼は人心安定のため平服のまま各地を視察しましたが・・・この時、膳城の兵が武田軍に襲い掛かったため、武田軍により落城しました。(膳城素肌攻め)この落城後に膳城は廃城となったとされています。
昭和になり戦後、膳氏の末裔・膳桂之助が、本丸周辺を買い取って県に寄付しました。本丸・二ノ丸は1949年に埼玉県指定史跡に登録され、城址公園となりました。
所在地:群馬県前橋市粕川町膳
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