2013/11/24
大胡城/群馬県前橋市
大胡城は川沿いの丘陵を利用して築かれていました。訪問日は2012年5月26日です。

▲東側を流れる荒砥川対岸からの遠景
大胡城の前には、いかにも堀の役目を果たしたであろう荒砥川が流れています。地形的に平城を築くのにとても適していますね^^

▲城跡入口にある城址碑
城跡への入口は、いかにも堀切っぽく深くくねった道を進みます。城址碑はその入口にありました。隣にある板は、崩落危険箇所だったかな?、を示すものです。お城は小さな丘を丸ごと使い切った感じで、川に面した東側は切り立った崖のようになっています。

▲二の丸から見た本丸
くねくね深く切り立った切り通しを抜けると、駐車場として使われている広場に出ます。ここが二の丸で、本丸を囲むように配置されています。

▲二の丸にある説明板
その二の丸で、本丸との間にある堀際の木の下に説明板があります。こちらには往時を想像した図まで付いています。こういうの大好きです

図は南西上空から見たようで、お城の陰に流れているのが荒砥川です。手前に描かれている曲輪が三の丸で、今は地図でみた感じでは役所になっているようです。

▲本丸から見た北の曲輪跡
城の東を流れる荒砥川はいかにも堀という感じでしたが、本丸・二の丸の北にもあります。堀切というよりは自然地形を利用したもので、今は保育園があります。ここって守ろうというよりは、取らせて攻撃を仕掛けるための曲輪でしょうか?
本丸からは丸見えです。
◆歴史◆(想像たっぷり♪)
鎌倉時代始め頃、大胡の地には藤原秀郷の子孫・大胡太郎が当地を支配していました。館は大胡城の西にある養林寺の辺りとされています。
大胡城を築いたのは益田行綱とされています。益田氏は大胡氏同様に藤原秀郷の末裔を称しており、大胡氏の一門衆だった可能性があります。築城年はわかりませんが・・・益田氏の歴代の年代と周囲の状況から推測すると、永享の乱が関わっているように思えます。
永享の乱は1438年、鎌倉公方と関東管領の間で始まった戦です。この時、関東管領・上杉憲実は領国である上野に平井城を築いて鎌倉から移りました。東隣の岩松氏は鎌倉公方配下のため、その攻撃に備える拠点が必要だったはずです。
1455年に始まった享徳の乱で、古河公方・足利成氏は岩松持国に赤堀・大胡・深津氏を攻撃させています。この頃、大胡城主・益田修茂は、岩松持国の家臣・横瀬国繁の軍門に降りました。
4代目・益田茂政の時に南隣の山内上杉家臣・那波氏に大胡城を攻め落とされ、益田氏は新田へ移りました。年代的には上杉家と古河公方が争っていた享徳の乱末期(1470年頃)と思われます。それが、いつの頃からか、大胡城は西隣の厩橋長野氏の支配下に置かれています。大胡に来た長野氏は大胡姓を名乗るようになり、元々の大胡氏を配下に組み入れました。厩橋長野氏は長尾景春に仕えていたので、1478年頃かと思います。
・・・すでに想像たっぷりです

1541年、横瀬氏の勢力が強大となり、大胡氏は江戸城近くの牛込城に移りました。
同年、横瀬氏は庁鼻和上杉氏、那波氏、長野氏、成田氏、佐野氏らの連合軍に攻められました。しかし、金山城で連合軍を撃退すると、反撃に転じて那波氏の本拠を攻め落としました。そして横瀬氏は淵名郷(伊勢崎市の北半分)を領地に加えました。これは大胡城のすぐ南に当たります。
大胡城自体はまだ厩橋長野氏の手にあったようですが・・・想像だらけですが、この時に大胡氏の所領が横瀬氏に奪われた可能性があります。普通なら味方である大胡城か厩橋城に落ち延びればよさそうですよね。当時上杉方だった長野氏ではなく、敵である後北条氏を頼ったということは、内紛の臭いが。大胡氏を保護することで、後北条氏は大胡の地を取り返す大義名分を得たのかもしれません。
1546年、河越夜戦で山内上杉家が敗北を喫した頃、那波氏は後北条氏に降りました。
1551年、厩橋長野氏も後北条氏に降りました。周囲の家臣が次々と後北条氏に降り、翌年には山内上杉憲政の居城・平井城も落城しました。その年の内に越後の長尾景虎が上野に攻め込み、沼田城や平井城を奪還しています。しかし、武田晴信が信濃へ侵攻したため、景虎は以後毎年川中島へ出陣するようになります。
1560年、長尾景虎が上杉憲政を奉じて上野国に攻め込みました。主君・岩松氏を追いやって領主となった横瀬氏改め由良氏は、長尾景虎に従いました。しかし、厩橋長野氏と那波氏は後北条氏方として抵抗したため、滅ぼされてしまいました。この時に厩橋城および大胡城は長尾景虎が長野氏から没収しています。
1563年、北条・武田連合軍により厩橋城が陥落しましたが、年内に長尾景虎が奪還しました。北条高広が厩橋城主となり、大胡城もこの時に高広に与えられたようです。
1566年、由良氏が後北条氏に寝返りました。
1567年、厩橋城の北条高広も後北条氏に寝返りました。
1569年、上杉輝虎と北条氏政が同盟を結び、北条高広は上杉家への帰参が許されました。一方、由良氏は帰参を拒んだようで・・・
1574年、上杉謙信が由良氏の金山城を攻めました。北条高広は厩橋城を子の北条景広に譲り、大胡城に移って隠居しました。
1578年、上杉謙信が没し、家督を巡って上杉景勝と上杉景虎が争いました。(御館の乱)この乱で上杉景虎に味方した北条高広は、子・景広と父・高定を討たれました。
1579年、武田勝頼が上野国に侵攻し、北条高広は降伏しました。
1582年、武田勝頼が織田信長に滅ぼされ、北条高広は織田家臣・滝川一益に従いました。 本能寺の変で織田信長が没すると、北条高広は後北条氏に従いました。
1583年、沼田を巡り上杉方に寝返った真田氏攻めを拒否し、北条高広も上杉氏に寝返りました。これに対して北条氏直みずから出陣したため、厩橋城の北条高広は降伏しました。以後、北条高広の消息がわからなくなります。
1590年、豊臣秀吉により後北条氏が滅ぼされ、徳川家康が後北条氏の旧領に移されました。大胡城には家康の家臣・牧野康成が2万石で入りました。
1616年、牧野氏は越後国長峰に移され、大胡は前橋城主・酒井氏の管轄となりました。このため、大胡城は廃城となりました。
所在地:群馬県前橋市河原浜町
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