2013/11/24
一郷山城/群馬県高崎市
一郷山城は牛伏山の尾根上にありました。訪問日は2007年12月31日です。

▲麓からの遠景
一郷山城は遠くからもよく見えます。藤岡ジャンクションから長野方面に入った長野道からも見えるそうです。さすが「展望台」

▲展望台
展望台の脇までクルマで上がれます。当時はまだクルマだったので、真冬でもこんな所に来れたんですね・・・あぁ、またクルマ欲しい

さて、この展望台は城好きにはとても評判が悪いようですね。なんたって、こいつを造るために本当の城跡をぶっ潰しちゃったそうで・・・そんな暴挙がほんの10年程前まで平気で出来ちゃったんですね。外見の安っぽさは素人にも受けなさそうですがw

▲展望台からの眺め
その展望台からの眺めです。タダで登り、見放題!さすが展望台だけあって、見晴らしはとても良いです。
◆歴史◆
本物の城は、室町時代に関東管領・上杉憲実により築かれたとされます。
1438年、永享の乱で鎌倉公方・足利持氏と関東管領・上杉憲実が戦いました。・・・乱の詳細は永享の乱のリンク先で見て下さいネ^^
足利持氏に命を狙われていると知った上杉憲実は、領国である上野国へ避難しました。その時に築かれたのが平井城です。憲実は持氏からの攻撃に備えていくつか城を築いたのですが、一郷山城もその1つです。一郷山城は平井城の西にあり、西からの脅威を見張るためだと思われます。
上野国の西といえば、信濃国または甲斐国。当時の状況は・・・
室町幕府と鎌倉公方の対立は、様々な所に飛び火していました。信濃国と甲斐国も例外ではありませんでした。
信濃国への影響力拡大を目論んでいた足利持氏は、村上頼清を推して小笠原氏と戦わせていました。持氏は村上氏劣勢の報に接し、自ら出陣しようとしましたが、上杉憲実に止められました。そのため村上氏は敗れ、幕府方の小笠原政康が守護の座を守り切りました。しかし、その後も政情は不安定だったようで、政康が没した後に後継争いが始まりました。
一方、甲斐国では守護・武田氏は傀儡で、守護代・跡部氏と武田一族・逸見氏が争っていました。鎌倉公方と関東管領が衝突し始めた1438年、西国に隠棲していた武田信重が甲斐へ戻ってきました。甲斐国の場合は事情が少し複雑なのですが、信重は幕府・鎌倉府の板挟みに遭っていたようです。そのため、甲斐武田氏は「攻めて来るかもしれない」という状況でした。結局、この時武田氏は持氏の出陣要請には応えませんでした。
時は下り、戦国時代。
1563年、武田信玄に攻められ落城しました。
武田軍は麓にあった?見銘寺を占拠して、城の水の手を絶ちました。城からは大木や大石を落として反撃したそうです。それが原因でお寺から出火。麓が燃えたら、だんだん上まで燃え広がりますよね・・・wやっぱりというか、この時城も焼け落ちたそうです。城主・安部中務尉は武田軍に斬り込んで討死してしまいました。
廃城はおそらくこの時でしょうか。焼けた上に役目を失いましたからね。
現地説明板では、武田信玄が攻めた相手は平井城の関東管領と書かれていました。平井城はともかくとして、その頃は越後・上杉政虎(謙信)と連携してまだ勢力を保っていたのですね。しかし、真田幸隆を先鋒とする武田軍は次第に西上野で版図を拡げてゆきました。
そして、1989年3月に悪名高い?展望台が出来ました。展望台建設のため遺構は破壊され、名実ともに無くなりました(TДT)
所在地:群馬県高崎市吉井町多比良
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