2018/04/30
名胡桃城/群馬県みなかみ町
名胡桃城は、2017年4月6日に続日本100名城に選出されました。訪問日は2018年4月28日です。

信号を城跡側に入った所が駐車場です。
駐車場は般若郭がそのまま使われています。

以前は気付きすらしませんでしたが、手前に堀切様が


入口にあるこの建物が、スタンプのある案内所です。
もちろん頂きました

続日本100名城スタンプ
![]() | 設置場所 名胡桃城址案内所 開いている時間:9時~16時 お休み:12月28日~1月3日 |

案内所から沼田側に20メートル程行った所が城跡の入口です。
もうGWですが、まだ桜が咲いていました。

前回訪ねて以降、大河ドラマがあったりしてかなり整備されていました


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上のモニュメントに描かれていた図です。
綺麗です


ホント、綺麗になりました

ただ綺麗になっただけでなく、堀切脇の土塁も復元されていました。
こうやって木橋まで架けられ、まるで往時にタイムスリップしたようです。
・・・でもないか。
柵や櫓は無いので、歩きやすくなっただけですね


スタンプに描かれているのってどこ?っとちょっと考えましたが・・・
どうやら2郭のようです。
建物の柱跡が地面に示されているのがココだけなので。
そういう目で見ると、奥の木の感じもやっぱりココな感じがします。

2郭と主郭の間の堀切と虎口です。
以前はいったん底に下りて上がるだけでした。
本来の「城跡」はそうなんですけどね。
こんなに立派な木橋だと、敵に攻められた時に落とすのも大変そう


主郭です。
ここだけは雰囲気そのままです。
幟は立ちましたけどw

主郭の奥にもう1つ、笹郭があります。
前回は見ていませんでしたけど

主郭でUターンする人が多いと踏んだせいか、ちょっと雰囲気違います。
でも、皆さん結構こっちまで来てましたwww

笹郭から沼田方面を見た所です。
とてもよく見えます

往時は沼田城はとても目立ったと思われますが・・・
今はちょっとワカリマセン

所在地:群馬県利根郡みなかみ町下津
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以下、2013年11月19日にアップしたブログです。
9年前と現在の違いがよくわかります

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名胡桃城は沼田の北、国道沿いにありました。
訪問日は・・・2009年4月19日です。

▲案内
名胡桃城跡は、国道17号のバイパス沿いにあります。沼田から新潟方向へ走ると利根川を渡る大きな橋があり、その先の右カーブを曲がった所です。案内はいくつかあるのですが、急カーブを曲がってすぐなので通り過ぎそうになります。・・・とは言っても交通量は少ないので、すぐにUターンできます^^

▲説明板
駐車場には立派な説明板がありました。こうやって見ると、バイパスが城跡の真ん中を分断しています。こんな事を平気でできる時代があったんですね(´・ω・`)

▲二の丸跡
二の丸は道から入ってすぐの平坦地です。
その真ん中には写真の碑がポツリ。

▲本丸
二の丸と本丸は、断ち切ったのか元々の地形なのか、ザックリ隔絶されています。写真では分かりづらいのですが、城は細長い舌状台地を利用して築かれていました。城跡を回り始めた頃なので、こういった地形に関心が無く・・・。防御の工夫とかに目を向ければ、とても面白い城跡だと思います。

▲城址碑
本丸には幾つもの碑がありました。有名なお城の本丸ですからね!その中で一番好きだったのがこれ。手書きっぽさがイイですね

◆歴史◆
1578年、上杉謙信が没すると、養子の上杉景勝と上杉景虎が家督を巡って争いました(御館の乱)。御館って元関東管領・山内上杉憲政に宛がわれた館だったんですね。その上杉憲政はなぜか、仇敵・北条氏康の子で上杉謙信の養子となった上杉景虎に味方します。上杉謙信が「景虎」の名を与えたことからも寵愛ぶりが窺われます。上杉景虎には人を惹きつけるものがあったのでしょうね。
実家・後北条氏を後ろ楯に持つ上杉景虎に対し、上杉景勝は劣勢を強いられていました。そんな上杉景勝のとっておきの策が、武田勝頼との同盟でした。上杉景勝は上杉謙信が苦労して手に入れた北信濃の他、上野国の領地を武田勝頼に差し出しました。領土拡大に意欲的な武田勝頼は、手に入れた拠点から上野国内で後北条氏と争うようになりました。
1579年、真田昌幸が沼田城攻略の足がかりとして名胡桃城を築きました。
沼田領の侵攻は、稀代の策士と称された真田昌幸が任されました。真田昌幸は翌年には城代の1人・金子泰清を調略し、沼田城を無血開城させます。
1582年、真田昌幸は武田→織田→北条→徳川→上杉と主を替えます。
3月に武田勝頼が滅ぼされると上野国は織田信長の支配地となり、滝川一益が派遣されました。真田昌幸は当初、滝川一益の配下となりました。しかし、6月には織田信長が本能寺の変で自害。滝川一益は神流川の戦いで北条氏直に大敗北を喫し、領国・伊勢へ逃げ帰りました。この他、各地で武田旧臣による織田家臣排斥の動きが活発化し、甲斐・信濃・上野が主の居ない空白地帯となりました。この広大な空白地帯を巡って北条氏直、徳川家康と上杉景勝が争いました(天正壬午の乱)。真田昌幸は主を失ったため、後北条氏に仕えるようになりました。
後北条方として信濃攻略の中心となった真田昌幸は、信濃一国を制圧する勢いでした。しかし、そんな中で突如、信濃攻略を巡って争っていた徳川家康に鞍替えしました。すると、北条氏直は形勢不利と見て、徳川家康と和議を結びました。その中で沼田領の扱いで揉めたようですが・・・。最終的に沼田領は後北条方に割譲することで合意に至りました。
苦労して手に入れた沼田領が取り上げられることに真田昌幸は激怒し、上杉景勝に鞍替えしました。こうやって考えると、この時の徳川家康の決断が後北条氏の滅亡につながってるんですねw真田昌幸は徳川・北条両家の不穏な空気を察し、本拠の上田に堅固な城を築きました。
1585年、徳川・北条連合軍が上田城を大軍で攻めますが、真田昌幸が撃退します。この戦の後、真田昌幸は豊臣秀吉に仕えるようになり、次男・真田幸村を人質に出しました。
1588年、豊臣秀吉と後北条氏は一触即発の状態でした。それは、豊臣秀吉の聚楽第行幸への列席を、北条氏政が拒否したからでした。この時、京では後北条氏討伐の噂が立ちましたが、徳川家康の仲介により事なきを得ました。その後、北条氏政の弟・氏規が名代として上洛することで、両家の間の緊張は一時解けました。沼田領の裁定を豊臣秀吉に依頼したのも後北条氏で、北条氏政の8月上洛を担保に、沼田城が引き渡されました。しかし、北条氏政が上洛時期を12月に延期したいと請うと、豊臣秀吉はこれを拒否。この時期に名胡桃城で事件が起きました。
1589年11月、沼田城代・猪俣邦憲が名胡桃城を奪いました。
猪俣邦憲は名胡桃城城代・鈴木重則の家臣を寝返らせ、鈴木重則が城外へ出た留守の間に城を乗っ取らせました。鈴木重則は己の不甲斐無さを恥じて、沼田市内にある正覚寺で切腹して果てました。
豊臣秀吉は、これは私闘を禁じた惣無事令に反するとし、全国に後北条氏討伐の号令を発しました。これは後北条氏家中でも寝耳に水だったようで・・・。北条氏政は延期はしていましたが、上洛にはとても前向きだったとされています。事件の首謀者・猪俣邦憲は、事の重大さに恐れおののいて逃亡。名胡桃城は真田昌幸に返して申し開きをしましたが、豊臣秀吉は聞く耳を持ちませんでした。
1590年、豊臣秀吉により全国の大名が動員され、後北条氏が滅ぼされました。戦後、沼田領が真田昌幸に安堵されると、名胡桃城は役目を終えて廃城となりました。
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